舞木村(読み)まいぎむら

日本歴史地名大系 「舞木村」の解説

舞木村
まいぎむら

[現在地名]千代田町舞木

南を利根川が流れ、東は赤岩あかいわ村、西は古海こかい(現大泉町)、南は武蔵国幡羅はたら葛和田くずわだ(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は新福寺しんぷくじ村・福島ふくじま村。貞観年中(八五九―八七七)舞木氏の所領に由来する村名とされる(邑楽郡町村誌材料)。地元の伝承によれば、舞木村はもと中島なかじま村といい、貞観年中藤原長良がこの地に本拠を定め、武蔵国羽生はにゆう(現埼玉県羽生市)の猪熊森高を討った際、春日社前で榊に祈り、帰陣の時にこの榊が空に舞上がり、中島に落ちたので舞木村と改めたという。応安七年(一三七四)下野小俣おまた(現栃木県足利市)鶏足けいそく寺二九世尊誉は「舞木駒形堂」で仏事を行っている。


舞木村
もうぎむら

[現在地名]三春町上舞木かみもうぎ下舞木しももうぎ、郡山市舞木町

山田やまだ村の南、鷹巣たかなす村の西、西流する八島やしま川およびそれと併走する会津への道(国道二八八号)に沿う。村名はみやまえ直毘なおび神社(旧二社大明神)境内にあった大木が激しい突風のため根こそぎ空に舞上がったことに由来するとの説がある(三春町史)たいら(地元ではてえら)に弘安六年(一二八三)銘の慈父供養の石塔がある(三春町史)。天文七年(一五三八)一〇月一〇日の某代銭請取状案(青山文書)に「舞木のたいら三百文」とみえる。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「三段 二百文 岩のさく」、同一一年七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「岩のさく」「四町 一貫五百文 もふき」、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)に「岩之作」「毎木」、同一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)に「岩之作」「舞木」とみえ、毎木とも舞木とも記し、「まいぎ」とも「もうぎ」ともよび、岩之作いわのさくと舞木の二村として扱われていた。


舞木村
まいきむら

[現在地名]豊田市舞木町

かご川沿いに位置する。東部の平頂丘陵は、矢作川の浸食を受けにくいために、三好面が残存する。舞木遺跡からは尖頭器が発見されている。舞木廃寺跡の近辺には、三反田さんたんだなどの条里制にちなむ地名が残る。

明徳四年(一三九三)の中条詮秀寄進状(猿投神社文書)には「加納郷近弘名内有舞木郷之内星田事」として加納かのう・舞木二郷から田二反を猿投神社の末社八幡社の修理料としている。また応永一七年(一四一〇)の散位某寄進状(同文書)によると、舞木郷内星田二反、年貢一貫匁の土地を、祈願成就を祝して、猿投八幡大菩薩に寄進したが、この地の年貢を無沙汰した場合には、他の作人に申付けるようにとある。


舞木村
まいぎむら

[現在地名]岡崎市舞木町

東海道三河高原を横断する御油ごゆ断層の西入口にあたる街村。東は山綱やまつな村、西は東海道に沿って市場いちば村・藤川ふじかわ宿に続く。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一二月一九日条に源頼朝が京都より鎌倉への帰路「山中」に止宿とあり、飛鳥井雅世の永享四年(一四三二)九月の「富士紀行」に「山中と申所あり折ふし鹿のこゑほのかにきこえければ」とある「山中」はこの辺りをさしている。

慶長六年(一六〇一)以後幕府領、享保一一年(一七二六)岡崎藩領、宝暦一三年(一七六三)幕府領、明和七年(一七七〇)岡崎藩領となって明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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