改訂新版 世界大百科事典 「三河高原」の意味・わかりやすい解説
三河高原 (みかわこうげん)
木曾山脈の南縁,愛知県北東部に展開する高原。西は瀬戸市東部の猿投(さなげ)・三国山地,東は中央構造線の走る豊川河谷に至る。隆起準平原状の高原で,大部分は標高400~800mに位置し,平たんではあるが起伏に富んだ山容を呈する。北西部を矢作(やはぎ)川,北東部を天竜川,東部を豊川およびその支流が深く開析している。標高1000m以上の山は県下最高峰の茶臼山(1415m)や段戸山(1152m)など数座にすぎない。高原東部の新城(しんしろ)市東部から北設楽(きたしたら)郡南東部にかけては上部に火山岩,火山砕屑物をのせる鳳来寺山(695m),宇蓮(うれ)山(929m)などの低い山地が分布している。地質は岡崎市~新城市以南ではケイ線石雲母片麻岩やケイ質片麻岩を主とする領家変成岩類,以北では花コウ岩類が卓越している。花コウ岩地帯では一般に風化層(風化マサ)が30~50m以上の厚さに及ぶことがある。矢作川水系はこのような風化花コウ岩地帯を主流域とするため,砂防法施行指定面積が2200haに達している。三河高原の準平原形成時期は,西日本に顕著に分布する標高500m前後の平たん面形成期と同じく,第三紀中新統堆積後と考えられている。ここに刻まれた谷は,老年谷と新しく復活した浸食谷に大別される。名倉川,巴川などの上流部の老年谷底には厚い泥炭層やシルト層などが堆積しており,水田耕作に利用されている。
愛知県の屋根といわれる三河高原は年間降水量が2000mmを超える多雨地帯で,杉やヒノキの美林が育っている。明治時代から古橋源六郎らの指導により森林の育成と植林がすすめられ,現在では全国有数の人工林の割合の高い地域になっている。大部分が民有林であるが1戸当りの面積規模は約5haと少なく,専業林業家はほとんどない。水資源開発も早くから行われ,天竜川水系の佐久間ダム,新豊根ダム,豊川水系の宇蓮ダム,設楽ダム,寒狭(かんさ)川ダム,矢作川水系の矢作ダム,羽布(はぶ)ダム,巴川ダムなど,洪水調節をはかるとともに,農業・工業・上水道用水に役立つ多目的ダムが建設されている。高度経済成長期以来,豊橋,名古屋方面への人口流出,挙家離村が目だち,急激に過疎化が進行した。しかし,近年になってマイクロバスによる豊田市への通勤,三河山間地への工場進出が始まり,山村内での作業機会が増えたことにより,人口減少は一段落した観がある。豊根村では40戸の一戸建て村営住宅の建設,村営喫茶店の開業,山村夏季大学などを契機に外部の人々との交流の場を設けるなど,若年層の村への復帰をはかっている。農業部門では酪農や養鶏,養豚などの畜産,シイタケ,コンニャクなどの栽培が新しく試みられている。
鳳来寺山,香嵐渓などの景勝地をかかえ,東部は天竜奥三河国定公園,西部は愛知高原国定公園に指定され,また花祭などの民俗芸能,長篠の戦の合戦場跡などの史跡も多い。
執筆者:溝口 常俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報