千葉県北西部にある市。下総(しもうさ)台地と東京湾低地に位置する。1937年(昭和12)船橋、葛飾(かつしか)の2町と八栄(やさかえ)、法典(ほうでん)、塚田の3村が合併して市制施行。1953年(昭和28)二宮(にのみや)町、1954年豊富(とよとみ)村を編入。2003年(平成15)中核市へ移行。海老(えび)川の河口に船を並べて橋としたことが地名の由来。JR総武本線・武蔵野線(むさしのせん)・京葉線、京成電鉄、新京成電鉄、東武鉄道野田線、東京地下鉄東西線、北総鉄道、東葉高速鉄道などが各方面に延び、国道14号、16号、296号、357号、464号が通じるほか、京葉道路、東関東自動車道が海岸線を走り東京と直結する。
古代、下総国と上総(かずさ)国を結ぶ官道が通じ、市の中央部は伊勢神宮(いせじんぐう)の神領であった。中世は千葉氏に、戦国時代は高城(たかぎ)氏に支配され、船橋大神宮(意富比神社(おおひじんじゃ))周辺では五日市(いち)、九日市の定期市が開かれた。江戸時代は幕府直轄地(天領)と旗本領に細分され、徳川家康が設けた御成(おなり)街道(東金(とうがね)新道)に船橋御殿があった。江戸中期以後は千葉街道と成田街道の合流する宿場町、また船橋大神宮の門前町として発展した。海岸では沿岸漁業が行われ、江戸後期には採貝、製塩も始まり港町が形成された。台地上には小金五牧(こがねごまき)の一つ下野(しもの)牧が広がり、明治時代以後、東京方面からの入植者によって二和(ふたわ)、三咲(みさき)の農村地域が開墾された。1894年(明治27)総武鉄道(現、総武本線)が開通して宿場町、港町の機能は薄れ、昭和初期には東京の衛星都市的性格を有するようになった。第二次世界大戦後、海岸の埋立てが始まり工場誘致と京葉港の整備が進む一方、内陸部でも工業団地が造成された。とくに湾岸地域にはビール、鉄鋼など多数の企業が立地し、全国有数の規模を誇る京葉食品コンビナートもある。台地上には千葉ニュータウンや高根台などの住宅団地や住宅地が開発された。JR・東武鉄道の船橋駅および京成電鉄の京成船橋駅周辺はデパートやスーパーマーケットが建ち並ぶ商業地区を形成、駅周辺は再開発され、整備が進んだ。湾岸地域には大ショッピングセンター「ららぽーと」があり、JR南船橋駅付近とともに周辺住宅地の商業中心地となっている。農業は衰退しつつあるが、ニンジン、ホウレンソウなどの野菜生産やナシ栽培、酪農が行われている。埋立てで漁業は衰退したが、海老川河口の漁港ではノリ、アサリ、スズキなどの水揚げもある。
中山競馬場、船橋競馬場などレジャー施設が多い。都市化地域にあって船橋県民の森や、ふなばしアンデルセン公園、4か所の市民の森のほか、西隣の市川市沖にかけて広がる貴重な干潟、三番瀬が望めるふなばし三番瀬海浜公園があり、憩いの場になっている。船橋大神宮は『延喜式(えんぎしき)』にも意富比神社と記されている古い神社で、灯明台は県の有形民俗文化財に指定されている。小室(こむろ)の獅子舞(ししまい)は県指定無形民俗文化財。面積85.62平方キロメートル(境界一部未定)、人口64万2907(2020)。
[山村順次]
『『船橋市史』全12冊(1959~1996・船橋市)』
操舵(そうだ)室、海図室などを集中した船の中央指揮所。ここで航海当直が行われ、操舵、主機関の操作、投揚錨(とうようびょう)、係船などあらゆる指令が発せられる。帆船の操船指揮は、舵取(かじとり)装置があり帆の状態を見るのに都合のよい船尾の甲板で行われた。蒸気機関が使われるようになって、船の中央部に現在の歩道橋のような構造物を両舷(りょうげん)にわたって取り付けて操船指揮所としたのが船橋の始まりである。現在の船橋は船の中央部最上層の甲板室にあるものが多いが、タンカー、コンテナ船ほかの専用船では船尾楼の最上層に船橋を設けている。また、発令ばかりでなくほとんどすべての機能を船橋から直接操作できる自動化船が増えている。
[森田知治]
鎌倉時代よりみえる地名。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の関東御知行国々内乃貢未済庄々注文に船橋御厨とあり、後白河院領であるとともに、建久期(一一九〇―九九)には香取神宮遷宮の負担を割当てられているが(「遷宮用途注進状」香取文書)、同御厨は伊勢内宮領の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北西部,東京湾に面する市。1937年市制。人口60万9040(2010)。中心市街の船橋は,船橋大神宮の門前町と佐倉・成田街道の船橋宿,および漁村が結合して発展した町である。市域にはJR総武本線,武蔵野線,京成本線,新京成線,地下鉄東西線,北総開発鉄道(現,北総鉄道)および東関東自動車道が通り,東京との交通が便利なため,近年は東京方面への通勤者の住宅地として人口が急増している。沿岸部はかつてノリと貝の養殖地であったが,埋め立てられて臨海工業地と大型港湾(京葉港)が造成され,鉄鋼,金属など工業化が進み,出荷額で県内3位(1995)の工業都市となっている。一方,内陸部は関東ロームの畑作地であり,早くから野菜生産中心の近郊農業地として首都圏内でも知られたが,近年は梨の栽培や近郊畜産も盛んになっている。
船橋大神宮は,式内社の意富比(おおひ)/(おふひ)神社が夏見御厨(みくりや)の置かれた平安時代末期ころ再建されて大神宮と称したものである。また,船橋ヘルスセンターは天然ガスを利用する浴場と各種娯楽施設をもった大遊園地で,とくに老人向けの休養宿泊地として人気があったが,1977年に閉鎖となった。JR船橋駅前には多くの大型小売店が進出し,前面の埋立地には臨海工業団地や,大型ショッピングセンター〈ららぽーと〉,スキードーム〈ザウス〉が開設され(2002年閉鎖),人気を呼んでいる。総武本線下総中山駅の北2kmに中央競馬会の中山競馬場がある。
執筆者:菊地 利夫
佐倉・成田街道の宿場町,江戸湾に面する港町。1592年(文禄1)下総上代(かじろ)に移封になった松平家忠は,江戸に向かう途中必ずこの地を経由し,またここから船で江戸に直行しているので,すでに近世初期には宿場町・港町的性格をもっていたものとみられる。徳川家康が東金(とうがね)鷹狩のためにつくった東金街道の分岐点でもあり,将軍休泊のための船橋御殿も設けられていた。中期以後は江戸より成田山新勝寺に参詣する旅人でにぎわい,参詣客は行きか帰りに必ず宿泊したといわれる。また港としては,とくに江戸と下総を結ぶ海上交通の要地であったが,漁業も盛んで,漁業権は東西の他村の海面にも及び,漁獲物の集散の中心でもあった。
執筆者:川名 登
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…1776年(安永5)家治の社参のときには供奉の大名・旗本とその家臣,上野・下野・下総・常陸・武蔵などの農村から動員された人足を含めて延べ400万人,馬30万疋,金22万両(これは幕府の年収の約7分の1にあたる)を要している。また将軍社参には日光道中栗橋宿と中田宿の間で利根川に船橋が架けられたが,8代吉宗のときはそれに2万両の費用がかかったと伝えられる。将軍社参のない年は大名による代参があり,また各大名の社参やその家臣による代参もあった。…
…橋幅は後の山城の淀大橋に匹敵し,落成式に臨んだ源頼朝が落馬して,それが原因で死んだという因縁のある橋で,当時を代表する橋といえよう。しかし,中世では桁橋は比較的少なく,文献に出る橋は多く浮橋すなわち船橋であり,渡河施設としてはむしろ渡舟が主だったようである。しかもそのいずれをも欠くところが多く,旅人は難渋した。…
…川水の深さは常水で9尺(約2.7m)で,1丈2,3尺になると船止めとなった。また将軍の日光社参時には船橋が架せられたが,その船数は53艘を数えたという。1885年大宮・宇都宮間に日本鉄道(現,東北本線)が開通したが,翌86年房川の鉄橋が竣工するまで鉄道の客は船渡しで中田まで運ばれた。…
※「船橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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