芝・芝浦(読み)しば・しばうら

日本歴史地名大系 「芝・芝浦」の解説

芝・芝浦
しば・しばうら

現港区の南東部、芝公園辺りからJR東海道本線(山手線)田町たまち駅辺りまでの一帯を芝、芝と同線を挟んで東から南にかけての東京湾に臨む一帯を芝浦とよぶ。

〔中世〕

「柴」とも記した(庚申七月五日「北条家朱印状写」武州文書)。芝の地名は文明一八年(一四八六)に東国を旅した道興准后の紀行文「廻国雑記」に「芝の浦」として登場する。道興准后はこのとき浅草寺に参詣したあと、鳥越とりごえの里(現台東区)から新井(現大田区か)に向かう途中で芝浦にさしかかった。芝の浦では塩屋の煙が打ちたなびき、塩木を運ぶ船が行交う物寂しい風景を眺め、そこに暮す芝の浦人を詠んでいる。その後芝の地名は北条氏康が天文二三年(一五五四)芝金曾木しばかなそき船方に対し下した法度に登場し、北条氏や吉良氏の支配にかかわる天正一六年(一五八八)までの一連の文書が残されている。芝は海に面し船方が集住する地域で、法度には芝金曾木の船方に対して船および家屋敷の売却禁止、欠落した船方の召還、郡代や地頭等の諸役賦課の禁止など四条項を定めている(天文二三年七月一二日「北条家船方法度写」武州文書)。これらの残された文書からは船方の諸役やその免除など、北条氏の支配の一端を知ることができる。芝(村)船方には浦賀詰役が課せられていて、その軽減のために番銭を代納する方法も定められていた(庚申七月五日・甲子一一月七日・天正一五年一二月一二日「北条家朱印状写」同文書)

また芝村は吉良氏の知行地となっており、弘治二年(一五五六)には同村の年貢一一貫が吉良領の年貢として納入されている(同年一二月一八日「吉良家朱印状」大平文書)。北条家は吉良氏家臣の江戸頼忠に船橋用の船六艚の供出を命じている(年未詳六月二九日「北条家朱印状写」武州文書)。戦国時代の終りには芝の地域に新宿が形成し始めており、吉良家が江戸近江守頼年を奉者として柴(芝)村の百姓中に対し、柴(芝)村新宿を設けるにあたって不入地として横合非分を禁じる制札を出している(天正一六年七月二四日「吉良家制札」芝大神宮文書)

〔近世〕

江戸時代は東海道の外堀にかかる芝口しばぐち(新橋)以南、高輪たかなわ辺りまでの総称。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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