日本歴史地名大系 「芝・芝浦」の解説
芝・芝浦
しば・しばうら
現港区の南東部、芝公園辺りからJR東海道本線(山手線)
〔中世〕
「柴」とも記した(庚申七月五日「北条家朱印状写」武州文書)。芝の地名は文明一八年(一四八六)に東国を旅した道興准后の紀行文「廻国雑記」に「芝の浦」として登場する。道興准后はこのとき浅草寺に参詣したあと、
また芝村は吉良氏の知行地となっており、弘治二年(一五五六)には同村の年貢一一貫が吉良領の年貢として納入されている(同年一二月一八日「吉良家朱印状」大平文書)。北条家は吉良氏家臣の江戸頼忠に船橋用の船六艚の供出を命じている(年未詳六月二九日「北条家朱印状写」武州文書)。戦国時代の終りには芝の地域に新宿が形成し始めており、吉良家が江戸近江守頼年を奉者として柴(芝)村の百姓中に対し、柴(芝)村新宿を設けるにあたって不入地として横合非分を禁じる制札を出している(天正一六年七月二四日「吉良家制札」芝大神宮文書)。
〔近世〕
江戸時代は東海道の外堀にかかる
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報