苦竹村
にがたけむら
[現在地名]仙台市原町苦竹・原町二―六丁目・扇町一―二丁目・同五丁目・日の出町一―三丁目・東仙台三丁目・南目館・苦竹一―三丁目・五輪二丁目・銀杏町・卸町・萩野町・高瀬町・館町一―二丁目・松岡町・新田西町・新田北町・古宿町
鶴ヶ谷村の南東にある。交通上の要地で、仙台城下より原町を通り塩竈・松島方面、名取郡根岸村長町への道などが通り、南東の南目村との入会地の原町は宿場として栄えた。「余目記録」によれば、留守氏の祖伊沢家景の弟伊沢(のち改め宮城氏)家業は「実朝の上意ニハ、家なりか高名比類なし」で、軍功により一国でも二国でも与えるといわれたので奥州を求めたが容れられず、次いで宮城郡を求めたがこれは家景がすでに在城するからと断られ、「にかたけの郷ヲ宮城本郷」としそれのみを与えられた。
苦竹村
にがたけむら
[現在地名]大津町室
引水村の西にある。塔迫村の南から新村周辺にかけて村域が広がる。白川右岸の古い段丘面に位置し、瀬田上・瀬田下両井手懸りの用水路によって水田地帯となっている。「国誌」に「高九百三石四斗余、里俗苦竹町ト云大津町ノ続」とあり、この辺りは天正(一五七三―九二)の頃までは広野で苦竹のみが茂っていたという。その後加藤氏が当地に宿駅を仕立てるため、年貢を三年間免除して農民の移住を進め、慶長二年(一五九七)頃に町立てがなされたという。この間の事情について「大津史」は、天正の頃までは下陣内村内鍛冶村の西(現新)に苦竹という村落があったが、加藤忠広の代に大津町内上町・下町の人家とともに苦竹村の住民を強制移住させたのが、「大津の苦竹」の起源で、その後還住した農民によって形成されたのが新村であるとしている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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