英多保(読み)あいたほ

日本歴史地名大系 「英多保」の解説

英多保
あいたほ

和名抄」英多郡英多郷の郷名を継ぐものか。遺称地は不明であるが、史料上で楢原ならばら(現美作町)と一括されることや、河北かわぎたがみえるので、現作東町西部の吉野よしの川右岸一帯に推定される。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)八月八日条に尊勝そんしよう(跡地は現京都市左京区)領として「林野英多保」とあり、梶原景時の非法が知られる。鎌倉期を通じ同寺領であった。正嘉元年(一二五七)には同寺准胝堂領であったが、地頭の非法が院に奏上されている(「経俊卿記」同年九月一八日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「英多保」の意味・わかりやすい解説

英多保 (あいたのほ)

美作国英田(あいだ)郡江見村川北(現,岡山県美作市川北)付近一帯を占めた保。英多郡英多郷が荘園化したものらしい。〈あがたのほ〉とよむこともある。平安後期には六勝寺の一つ尊勝寺の寺領で,《吾妻鏡》文治3年(1187)8月8日条によれば,年貢雑事をめぐって,寺家は美作守護梶原景時の代官を改補しようとして訴訟をおこしている。景時の没落後,地頭として安東氏が入部した。安東氏は土着して,のちに江見氏,渋谷氏とならぶ東作の代表的国人となる。1345年(興国6・貞和1)足利直義は尊勝寺法華堂領英多保河北雑掌の訴えによって,地頭安東千代一丸が抑留した1342年分年貢の弁済を命じている。室町時代には相国寺鹿苑院領になっており,《蔭涼軒日録》にその名が散見する。在地の国人安東右馬助と蔭涼軒主との間には当保の所務職をめぐって紛争があり,備前守護代浦上則宗がこれに介入して東作に勢力を扶植していった。15世紀の動乱の中で英多保もその実体を失った。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の英多保の言及

【英多保】より

…安東氏は土着して,のちに江見氏,渋谷氏とならぶ東作の代表的国人となる。1345年(興国6∥貞和1)足利直義は尊勝寺法華堂領英多保河北雑掌の訴えによって,地頭安東千代一丸が抑留した1342年分年貢の弁済を命じている。室町時代には相国寺鹿苑院領になっており,《蔭涼軒日録》にその名が散見する。…

※「英多保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android