草間村(読み)くさまむら

日本歴史地名大系 「草間村」の解説

草間村
くさまむら

[現在地名]新見市草間

足見たるみ村・土橋つちはし村の南、標高四〇〇―五〇〇メートルの草間台地に立地。南西は高梁たかはし川で限られる。湯川ゆかわ佐川さがわ小中こなか寺尾てらお馬繋まつなぎ大原おおはら東村ひがしむら鴨峠かもうだわ今西いまにし渡瀬わたせ本村中組ほんむらなかぐみ本村西組・切畑きりはた谷合たにあい老能おいのう松仁子まつにご宮原みやはら岩中いわなか羽代はしろ井倉野いくらの広石ひろいし集落がある。谷合は高梁川の川湊集落で、江戸初期に法曾ほうそ井高いたか以北船路が再開発されたのちは、川之瀬船・新見船などとともに谷合船も井高まで就航した。

中世には草間郷とよばれ結城宗広の所領であったが、建武三年(一三三六)二月六日、備中荏原えはら(現井原市)とともに後醍醐天皇綸旨(白河結城文書)によって、三河国渥美あつみ野田のだ(現愛知県渥美郡田原町)など九郷と取替えられた。


草間村
くさまむら

[現在地名]中野市大字草間

高丘たかおか台地の東南方の丘陵線に沿って背後に日和ひより山を負い延徳平えんとくだいらに面して細長く展開している集落である。伝承によると、もと字大久保おおくぼ地籍にあったが、永禄年間(一五五八―七〇)の兵火以後さびれ、天正年中(一五七三―九二)に現地に移ったという(長野県町村誌)

本村には早く草間氏が土着しているが、牧人として入植したものと思われる。応永七年(一四〇〇)大塔合戦に高梨朝高の家臣に草間大蔵の名がみえるのが初出(大塔物語)


草間村
くさまむら

[現在地名]豊橋市草間町・おうさき町・駒形こまがた町・大山おおやま町・一色いつしき町・中野なかの町など

牟呂むろ村の南の洪積台地にあり、西は渥美湾に臨む。王ヶ崎町には王塚おうづか古墳と称する円墳があり、環頭太刀・硝子玉など多くの遺物が出土した。同名の古墳が牟呂地籍にもある。

当村付近は中世より草間郷とよばれ、建武二年(一三三五)一〇月二六日の北畠顕家袖判、結城上野入道々忠知行得宗領事(白河結城文書)に「牟呂草間郷」とあり、北条氏一門の所領であって、結城宗広が知行した。また翌延元元年(一三三六)四月二日の結城宗広譲状(同文書)に「草間郷」とあり渥美郡内一〇郷とともに結城顕朝へ譲渡され、さらに応安二年(一三六九)六月一九日に顕朝より満朝へ、応永四年(一三九七)一〇月二一日に満朝より氏朝へと伝領されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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