井手村(読み)いでむら

日本歴史地名大系 「井手村」の解説

井手村
いでむら

[現在地名]一の宮町中通なかどおり

中央火口丘から北流する河川が形成した扇状地の扇端に位置し、水に恵まれた水田地帯にある。東から南は宮地みやじ村、西は小野田おのだ(現阿蘇町)、北は下原しもばる村と接する。治承二年(一一七八)三月一三日の阿蘇社宮師僧長慶譲状案(阿蘇家文書)によれば、長慶は嫡子亀法師丸に「下井手高島」「同久牟田」などにある重代相伝の田地を譲っている。元徳二年(一三三〇)一月一四日、阿蘇社四宮造営のため野尻彦五郎方と饗庭三郎方の井手郷は各々後二〇支、また上井手は小野田山田やまだ(現阿蘇町)とともに野一〇支・裏板二〇枚を二月中に納入するよう割当てられている(「阿蘇社造営料木第三箇度切符写」同文書)。その後も阿蘇社の造営・神事などに際し諸役を賦課されている。

建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇家文書)に、渋河兵庫助が沙汰する北郷のうち、井手郷五町、小野田・上井手郷一〇町とみえる。正平一一年(一三五六)九月二日に阿蘇山衆徒は阿蘇上宮に寄進された井手一二町に懸けられていた流鏑馬役を、山上衆徒の役として勤仕することを拒否すると内談によって決定した(「阿蘇山衆徒内談引付写」西巌殿寺文書)。同一九年一二月「かみいて」は周防殿の給分であり、故殿の時より足手(夫役)を懸ける権利をもっていたことなどが報告されている(「阿蘇社領宮地四面内并郷々闕所注文」阿蘇家文書)


井手村
いでむら

[現在地名]荒尾市本井手ほんいで下井手しもいで

田倉たくら台地一帯に立地し、北部をせき川が西流し、東は上井手かみいで村、西は下井手村、南は平山ひらやま村・川登かわのぼり村、北は筑後国三池みいけ(現大牟田市)に接する。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)によると野原のばら八幡宮大祭の大行事を勤めた四ヵ村の一つで、康元元年(一二五六)の項の「小行事井手船津太郎」をはじめ当村住人の名が多数みえ、文安五年(一四四八)の項には「宮方大行事いての村ふちの二郎丸」と村名が付けられている。天正一五年(一五八七)一〇月、佐々氏は小代親泰に当村の田方五三町三反三丈・畠方六町五反二丈を加増分として宛行い(「佐々成政判物」小代文書)、慶長五年(一六〇〇)八月一二日の加藤清正判物(庄林文書)で当村一千三二九石余は加増分として庄林隼人に宛行われている。


井手村
いでむら

[現在地名]井手町大字井手 上井手かみいで

南はたま川を隔てて相楽郡石垣いしがき村、北は多賀たか村。集落は井手山麓の丘陵台地にある。

「山州名跡志」が「在玉水東山下十五六町、有民居村、境地山上ナル故ニ上井堤ト云フ。但上古ニ云フ井堤ハ此所ヨリ少西ノ方山下ヲ云フ。古ノ井堤里是也」と記すように、古くは玉川下流の扇状地が中心であったらしい。地名の表記は井堤のほか井出の字をあてることもあったが、井堰から転じたとされている。

奈良時代、当地の字西高月にしたかつき周辺に、橘諸兄により、円提えんてい寺が創建されている。


井手村
いでむら

[現在地名]一宮町井手

郡家中ぐんげなか村の南東にあり、郡家川が南西から北東へ流れる。西浦にしうらと東浦を結ぶ道が北西から南東へ通る。正保国絵図に村名がみえ、高二六〇石余。天保郷帳では高五二七石余。反別戸数取調書によると反別三八町四反、高六七六石余はすべて蔵入地。家数八六・人数五三一。王子組に属した。明治一〇年(一八七七)竹谷たけだに村と合併して井谷いだに村となる。法華宗(本門流)浄光じようこう寺はもとは浄光庵といわれ、当村石谷いしたに出身の僧浄光院日良の霊位を安置する。


井手村
いでむら

[現在地名]浪江町井手

高瀬たかせ川南岸にあり、北の対岸は大堀おおぼり村・小丸おまる村。東の谷津田やつだ村に接する地域は平坦だが、高倉たかくらから西は山中となる。伊手・井出とも記す。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「弐百文 出ノ肝煎」とあり、ほかに「いての」を冠する人名が五人いる。正保郷帳では田方九四石余・畑方五八石余。元禄郷帳では高一九七石余。寛永一六年(一六三九)の高二三二石余、明暦二年(一六五六)の高三一五石余(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数五〇、嘉永元年(一八四八)の家数四五(検地石高収納戸口等調)。文久元年(一八六一)の家数四九・人数三四二(奥相志)。明治三年(一八七〇)の家数五〇・人数三五六、馬五一(「人別改帳」福島県史)


井手村
いでむら

[現在地名]名張市井手

宇陀うだ川左岸、結馬けちば村の西に位置する。嘉元二年(一三〇四)正月一四日の黒田庄有徳人交名注進状(東大寺文書)に「井手」、永享一一年(一四三九)の黒田庄百姓等連署起請文(同文書)に「井手村」とあり、宇陀川の井堰から起こった地名と思われる。

江戸時代は元禄五年(一六九二)古検を改め本高一六五・四七六石、平高二八八・八四石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三六、人口一七八、牛三。社寺として桶子春日おけごかすが社・極楽寺があった(宗国史)。桶子社は雨乞の神として、井手・結馬・安部田・黒田くろだ四ヵ村の共同祭祀であった(伊水温故、三国地志)


井手村
いでむら

[現在地名]青谷町井手

青屋あおや村の西に位置し、北は日本海に臨む。伯耆街道が通る。寛永九年(一六三二)池田光仲の鳥取移封に従って播州姫路ひめじから鳥取に移った由宇勘平が仕置衆として気多けた郡を管していたとき、青屋村の西の沮沢を埋立てて成立した村という(鳥取県郷土史)。正保期(一六四四―四八)の作成とされる因幡国絵図(県立博物館蔵)に村名がみえ、高一六六石余。本免五ツ五分。藪役銀六匁八分二厘が課せられ(藩史)、北村氏・川尻氏・松沢氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数二四。


井手村
いでむら

[現在地名]柳川市高島たかしま

立石たていし村の北東にあり、三潴みづま郡に属する。天正一五年(一五八七)立花統虎(のち宗茂)は小野和泉守(鎮幸)蒲池かまち城勤番に命じ、同年八月一一日「井手村之内」一六町六反二丈中などを宛行った(「立花統虎坪付写」小野家文書)。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「いてむら」とあり、高二二五石余。元和六年(一六二〇)から久留米藩領。本高は二六三石余(元禄国絵図)、「在方諸覚書」では古高四〇〇石・役高二六六石。


井手村
いでむら

[現在地名]会津若松市門田町もんでんまち御山おやま

若松城下の南にあり、東は御山村、北西は中野なかの村。御山村から分村したという(会津鑑)。また寛永年間(一六二四―四四)頃に二幣地にへいじ村・河渓かわたに村などの農民がこの地に出て耕作したため出村と名付け、寛文年中(一六六一―七三)井手村としたという(新編会津風土記)


井手村
いでむら

[現在地名]五和町井手

下内野しもうちの村の南に位置し、内野川の中流域に平地がわずかに広がる。早くから交通の要所となり、志岐しき(現苓北町)へ向かう道として志岐道が開かれ、現在も一部使用される。地元で「殿様の墓」といわれる墓石があり、従来はキリシタン墓碑とされていたが、近年の調査で古墳時代の石棺の石材と確認された。正保郷帳に村名がみえ、高七四九石九斗余とある。井手組に属し、庄屋長島家は井手組大庄屋を兼帯した。


井手村
いでむら

[現在地名]亀岡市本梅ほんめ町井手

西は西加舎にしかや村、南東は東加舎村、北は平松ひらまつ村。集落は半国はんごく山南東の谷間から東流する川と北流する本梅川との合流点にある。井出村・出村とも書かれ、平松村の枝村であった。中世には「野口ののくちかみ村」の地であったと推測される。


井手村
いでむら

[現在地名]総社市井手・総社三丁目

八田部やたべ村の東に位置する。正保郷帳では同村の枝村に記されるが、元禄郷帳では独立して記され旗本蒔田領。同氏の陣屋が置かれていた。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高七二四石で同領。文久三年(一八六三)加増によって同氏が大名に列せられ、浅尾藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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