鞆淵庄(読み)ともぶちのしよう

日本歴史地名大系 「鞆淵庄」の解説

鞆淵庄
ともぶちのしよう

竜門りゆうもん山の東南、飯盛いいもり山南側の山間部、貴志きし川の支流真国まくに(鞆淵川)沿いにあった広域な荘園であるが、まとまった平地は乏しい。平安時代から鎌倉時代にかけては石清水いわしみず八幡宮寺領とされたが、南北朝以降は高野山領となった。鞆淵薗ともよばれた。住民が石清水神人などの身分を取得することから出発したかと思われ、薗の名称をもつことは成立の由来を示唆する。山間の荘園ではあるが、荘民は惣を結成して南北朝時代以来活発な闘争を展開、関係史料九〇点を惣庄の鎮守鞆淵八幡神社に残している。また高野山文書にも関係史料が比較的まとまってみられ、荘園生活の様子を比較的よく知ることができる。

初見は長元元年(一〇二八)九月二五日付の鞆淵園惣券状写(鞆淵八幡神社文書)で、「限東日高峯并栗林岫、限南志賀河南峯、限西東屋西峯并九十谷、限北大津南峯」の四至が示される。文意はややとりにくいが、石清水八幡宮寺より寄進状が下り、御薗沙汰人・百姓らが、この四至を記した惣券を定め置いたとみえ、一一人の署判がある。ただし干支を誤っているなど、この写どおりの文書正本がかつてあったとみることはできないが、長元年間頃には当庄がすでに石清水八幡宮寺領の薗として成立していたことは確かである。延久四年(一〇七二)九月五日付の太政官牒(石清水文書)は、延久の荘園整理令による審理の結果、石清水八幡宮寺領として元どおり領掌を認められた二一所の荘園が記されるが、そのうちに当庄も含まれ、次のように記される。

<資料は省略されています>

すなわち寛弘五年(一〇〇八)の石清水八幡宮寺の陳状にすでに当庄が記載され、しかもその時薗として設定された根源はすでに不明になっていた。以来代々国司は免判を出し、延久の整理令でも文書の証拠はなかったが、実績によって石清水八幡宮寺の荘園として認められたのである。これによっても長元の惣券状は細部はともかく、ほぼ真実を伝えるものとみてよいと思われる。その四至の正確な復原は困難であるが、鞆淵川(惣券状では「志賀川」)沿いの現鞆淵地区全域が、寛弘・長元の頃から鞆淵薗の境域だったのではあるまいか。

保元元年(一一五六)鳥羽上皇が没し、平治元年(一一五九)西隣の荒川あらかわ庄が高野山に寄進されると、田中たなか(現打田町)吉仲よしなか(現貴志川町)とともに当庄からも荒川庄への侵掠が行われた。次いで建保四年(一二一六)から六年にかけて、当庄の神人らが真国川下流の真国庄(現海草郡美里町)内石走村を押領した(建保四年一〇月二五日付「按察使家政所下文」宝簡集ほか)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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