日本歴史地名大系 「鞆淵庄」の解説
鞆淵庄
ともぶちのしよう
初見は長元元年(一〇二八)九月二五日付の鞆淵園惣券状写(鞆淵八幡神社文書)で、「限東日高峯并栗林岫、限南志賀河南峯、限西東屋西峯并九十谷、限北大津南峯」の四至が示される。文意はややとりにくいが、石清水八幡宮寺より寄進状が下り、御薗沙汰人・百姓らが、この四至を記した惣券を定め置いたとみえ、一一人の署判がある。ただし干支を誤っているなど、この写どおりの文書正本がかつてあったとみることはできないが、長元年間頃には当庄がすでに石清水八幡宮寺領の薗として成立していたことは確かである。延久四年(一〇七二)九月五日付の太政官牒(石清水文書)は、延久の荘園整理令による審理の結果、石清水八幡宮寺領として元どおり領掌を認められた二一所の荘園が記されるが、そのうちに当庄も含まれ、次のように記される。
すなわち寛弘五年(一〇〇八)の石清水八幡宮寺の陳状にすでに当庄が記載され、しかもその時薗として設定された根源はすでに不明になっていた。以来代々国司は免判を出し、延久の整理令でも文書の証拠はなかったが、実績によって石清水八幡宮寺の荘園として認められたのである。これによっても長元の惣券状は細部はともかく、ほぼ真実を伝えるものとみてよいと思われる。その四至の正確な復原は困難であるが、鞆淵川(惣券状では「志賀川」)沿いの現鞆淵地区全域が、寛弘・長元の頃から鞆淵薗の境域だったのではあるまいか。
保元元年(一一五六)鳥羽上皇が没し、平治元年(一一五九)西隣の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報