改訂新版 世界大百科事典 「荒野の誘惑」の意味・わかりやすい解説
荒野の誘惑 (あれののゆうわく)
《マルコによる福音書》1章12~13節,《マタイによる福音書》4章1~11節,《ルカによる福音書》4章1~13節に伝えられるイエスの事跡。これらの記述によるとイエスは洗礼の後,荒野で40日間悪魔に試みられた。バプテスマのヨハネによる洗礼はイエスについて知りうる数少ない史実の一つであるが,〈荒野の誘惑〉は全体として原始キリスト教団による創作である。元来はマルコの記事のように短い言表であったが,伝承の過程で拡大され,(1)石をパンに変え,(2)神殿の頂上から飛び下りて〈神の子〉であることを証明する,(3)地上の栄華と引きかえに悪魔を拝む,という三つの誘惑を含むものとなった後,マタイとルカの手に渡ったと考えられる。(1)と(2)(マタイの順による)の誘惑は奇跡を〈神の子〉の最大の資格証明とするヘレニズム的観念を前提し,イエスは《申命記》8章3節と6章16節を引いてこれを退ける。(3)の誘惑も排他的な神礼拝を求める《申命記》6章13節を根拠に退けられる。これらのことから,前述の形へ拡大して構成したのは,ヘレニズム的な奇跡や魔術信仰を批判し,旧約律法に啓示された神の意志への厳しい服従を強調した原始キリスト教内の1グループであったと考えられる。
執筆者:大貫 隆
図像
〈荒野の誘惑〉の美術表現は,カロリング朝時代に始まる。三つの誘惑が並列的に表現される場合や,代表して一つだけが表現される場合がある。キリストと悪魔(美しい若者の姿,修道士の姿,あるいはコウモリの翼をつけた怪獣の姿をとる)は相対して立ち,前者は右手を挙げて誘惑に対する拒否の身振りを示す。試練後,天使たちによって迎えられ,饗応されるキリストが表現されることもある。
執筆者:荒木 成子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報