ヨハネ(読み)よはね(英語表記)Ioannes ギリシア語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨハネ」の意味・わかりやすい解説

ヨハネ(イエスの弟子)
よはね
Ioannes ギリシア語
John 英語

イエス十二使徒の1人。『新約聖書』の「共観福音(ふくいん)書」(マタイ、マルコ、ルカ)によれば、彼はガリラヤの漁師ゼベダイの子で、兄弟ヤコブおよびペテロとともに、弟子たちのなかでもイエスからとりわけ信頼されていた人物であった(「マタイ伝福音書」4章、17章、「マルコ伝福音書」14章、「ルカ伝福音書」8章)。そして彼は、持ち前の激情的な性格のためか、「雷の子」とよばれた(「マルコ伝福音書」3章)。しかし「ヨハネ伝福音書」では、彼の名は直接に言及されない。しかしまた「使徒行伝(ぎょうでん)」3~8章によれば、彼はペテロと並ぶ原始教団の代表的人物であった。伝説によれば、のちに彼はエペソに定住し、ドミティアヌス帝治下にパトモス島に流刑された。

[定形日佐雄]


ヨハネ(バプテスマのヨハネ)
よはね
Ioannes ho Baptistes ギリシア語
John the Baptist 英語

パレスチナにおける洗礼者運動の代表的人物。『新約聖書』伝承によれば、祭司ザカリヤの子として生まれ(「ルカ伝福音(ふくいん)書」1章)、紀元28年ごろ(「ルカ伝福音書」3章)ヨルダン渓谷において預言活動を行い(「マタイ伝福音書」11章、「マルコ伝福音書」11章)、人々に説教し、悔い改めの証(あかし)としての洗礼(バプテスマ)を授けた(「マルコ伝福音書」1章)。彼が「バプテスマのヨハネ」とよばれるのは、このためである。そしてイエスも彼から受洗する(「マタイ伝福音書」3章、「マルコ伝福音書」1章)。加えてきわめて原始的な生活を送っていたことも特筆に価する(「マタイ伝福音書」3章、「マルコ伝福音書」1章)。そして禁欲的な生活を送っていたことから、エッセネ派の一員またはクムラン教団に関係があったのではないかとも考えられる。彼は、当時の王家を批判したため、刑死した(「マルコ伝福音書」6章)。

[定形日佐雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨハネ」の意味・わかりやすい解説

ヨハネ[ダマスカス]
Joannes Damascenus

[生]675頃
[没]749.12.4.
ギリシアの教会博士,聖人。ダマスカス出身の東方教会の著名な神学者。アラビアの年代史ではマンスール・ベン・サルユム。父セルギウスはキリスト教徒で,征服者であったサラセンのカリフのもとで高官であり,ヨハネは父の官位を継いだ。カリフはヨハネを重用し,限られた地方ながらも政治権力をゆだねたので,アラブに納税しながらもキリスト教の自治体を形成しえた。ギリシア,アラブの両語をよくし,キリスト教とイスラム教の対立と共存を体験し,キリスト教内部でも東西両協会の間に立った。しかし彼はビザンチン皇帝レオ3世の禁止した聖画像擁護のためいくつかの論文を著わしたあと,財産を捨てて聖サバ修道院に入りそこで余生をおくった。その間エルサレムの総大司教によって司教に任じられ,のち聖画像破壊論者との論争のためシリアやコンスタンチノープルを訪れた。主著『知識の泉』 Pēgē gnōseōs。

ヨハネ[十字架の]
ヨハネ[じゅうじかの]
Juan de La Cruz

[生]1542.6.24. フォンティベロス
[没]1591.12.14. ウベダ
スペインの神秘家,抒情詩人,聖人。本名は Juan de Yepes y Alvarez。貧困のうちにイエズス会学院に学び,1563年カルメル会に入ってサラマンカ大学に学んだ。 67年司祭となり,アビラテレサと邂逅し,内部からの圧力に耐え2度までも牢獄につながれる身となった。カルメル会改革,跣足カルメル会修道院創立に力を注ぎ,アンダルシアの準管区長をつとめた。著作は抒情詩と,それへの注解より成り,スペイン文学史にも大きな位置を占めている。そのなかで感覚よりの浄化,照明,神との一致の3段階を通しての神秘体験がうたわれている。『暗夜』 Noche oscuraは特に著名。 1926年教会博士。

ヨハネ[トマス主義神学者]
ヨハネ[トマスしゅぎしんがくしゃ]
Joannes a Thoma

[生]1589.7.9. リスボン
[没]1644.6.15. フラーガ
ポルトガル生れのトマス主義神学者。本名 João Poinsot。トマス・アクィナスの注解によりその名を得た。コインブラ,ルーバンで人文学,神学を修め,1610年マドリードドミニコ会に入った。 20年からマドリード,ピアチェンツァ,アルカラで神学を教え,43年国王フェリペ4世の顧問兼聴罪司祭となった。この間スペインの宗教裁判所で審査にもあたり,容疑者を公平に弁護した。敬虔かつ謙譲な人格に加え深い学殖により大きな影響を残した。主著『哲学提要』 Cursus philosophicus (9巻,1632~36) ,『神学提要』 Cursus theologicus (7巻,37~44) 。

ヨハネ[ジャンダン]
Joannes a Janduno

[生]1286頃.シャンパーニュ,ジャンダン
[没]1328. トディ
フランスの代表的アベロイスト。フランス名 Jean de Jandun。パリ大学,コレージュ・ド・ナバールで学び,後者の教授をつとめた。同僚パドバのマルシリウスの教皇権攻撃の書を支持し,ともにバイエルンのルートウィヒ4世のもとに逃れ,1327年破門された。「注解者」イブン・ルシュドの権威を全面的に認めたその哲学はいわば注解である。いわゆる二重真理説については,ヨハネの場合信仰の真理を認めているのはことばのうえにすぎず,合理主義者とみられる。

ヨハネ[パリ]
Joannes; John of Paris

[生]1255頃.パリ
[没]1306.9.22. ボルドー
フランスのドミニコ会士,哲学者。本名 Jean Quidort。パリ大学で教えたトミスト。 1286年いくつかの神学の命題を排斥された。主著『王と教皇の権力について』 De potestate regia et papali (1302頃) において2つの権力がともに神に由来しつつ相互に独立していること,公会議は教皇を廃位しうることを述べた。『決定』 Determinatio (04) では聖体を論じてルターに先駆する実体共存説を提出した。 (→トミズム )

ヨハネ[バプテスマの]
Joannes Baptista

聖人。ユダのヘブロンの人。荒野で育ち荒野で活動した民衆指導者。イエス・キリストの先駆者とされる (マルコ福音書1・2) 。また,イスラム教徒は彼を預言者の一人とし,マンダ教徒は尊敬の対象としている。ヨルダン河畔で説教活動に従事し,「悔い改めよ,天国は迫った」として悔い改めのバプテスマを述べ伝え,自分のあとに現れて聖霊と火によってバプテスマを授ける偉大なキリストについて預言し,エリヤの再来ではないかといわれていた。イエスも彼からバプテスマを受けた。のちヘロデ王とヘロデアの結婚に反対し,獄中で殺害されたと伝えられる。

ヨハネ
Iōannēs; John

聖人。使徒ヨハネともいう。十二使徒の一人。ガリラヤの漁師ゼベダイとサロメの子。兄弟ヤコブと一緒にイエスの招きによってただちにその弟子となりイエスに従った。熱心で激しやすい性格のゆえにヤコブとともに「雷の子」と呼ばれ,有能な説教者として重要な役割を果し,ペテロやヤコブとともに使徒中代表的存在とされている (マタイ福音書 17・1,ガラテア書2・9) 。伝承は『ヨハネによる福音書』,3つの『ヨハネの手紙』と『ヨハネの黙示録』を使徒ヨハネに帰しているが,いずれも確かでない。

ヨハネ[神の]
ヨハネ[かみの]
Joannes a Deo; John of God

[生]1495.3.8. ノボ,モンテモル
[没]1550.3.8.
ポルトガルの宗教家。聖ヨハネ病院修道会の創立者。初め牧童,次いでオーストリア軍に傭兵として従軍,信仰から遠ざかった。 40歳頃回心し,グラナダに帰り,そこでアビラのヨハネの説教に感激,1軒の家を借りて貧者と病者を収容,同志とともにその世話に献身した。 1572年教皇ピウス7世はこの信徒団体をアウグスチヌスの戒律による修道会とした。 1690年列聖,1886年病院と病者の保護聖人とされた。

ヨハネ[ネポムク]
Joannes de Nepomuk

[生]1345頃.ネポムク
[没]1393.3.20. プラハ
チェコの保護聖人,殉教者。イタリアのパドバで教会法を学び,1390年プラハ大司教区の総代理となったが,ボヘミア王ワーツラフ4世と大司教の争いの際に大司教の首座代理人として捕えられ王自身による拷問にあった。しかし彼は態度を変えずウルタバ (モルダウ) 川に突落されて殉教。

ヨハネ[ソールズベリー]

「ジョン[ソールズベリー]」のページをご覧ください。

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