日本大百科全書(ニッポニカ) 「荘園市場」の意味・わかりやすい解説
荘園市場
しょうえんいちば
平安末期、とくに鎌倉時代以降全国の荘園内に開かれるようになった定期市。多くは荘園の政所(まんどころ)や地頭館(じとうやかた)の近く、社寺の門前、港津、あるいは宿場などの地に開かれた。2、3、4、8などの特定の日に、月3回程度開かれた。各地に残っている四日市、八日市などの地名は、中世荘園内の市開催日がそのまま地名化したものが多い。荘園市場は中世における農業や手工業の生産力の向上、社会的分業や地域的分業の深化、中央都市と地方荘園間の流通の発展、商品貨幣経済の地方浸透、宋銭(そうせん)など銭貨(せんか)の全国流通などの諸条件を背景にして、全国的に普及した。市場での交換は、当初は東大寺領大和(やまと)国南郷(なんごう)荘市のように、荘園領主に貢納する雑公事物(ぞうくじぶつ)の購入・調達が大きな比重を占めていたと思われる。しかし地頭や荘官など在地領主、さらには名主(みょうしゅ)、作人(さくにん)といった農民層や荘内居住者たちが交換に参加するようになった13世紀中葉以降には、荘園年貢物の放出・換貨、銭納のためにも開かれるようになり、大量の年貢米・絹・麻など、さらには荘内特産物の仕入れのため、京都・奈良をはじめとする畿内(きない)などの中央の商人が活発に往来し、交換に参加するようになった。荘園領主や地頭は市の支配管理、市場税徴収のため、市奉行人(いちのぶぎょうにん)、市沙汰人(いちのさたにん)、市代官、市目代(いちのもくだい)などを置いた。市場は当初市日に仮小屋が設けられて売買が行われたが、やがてそこに定住する市場在家(ざいけ)も現れ、特権的な市座(いちざ)商人も進出するようになった。南北朝・室町時代の荘園制の解体期には、荘園市場は個別の荘園の枠を超えて広域経済の中心として市町(いちまち)あるいは都市化するものも現れるが、戦国時代に入ると、政治・経済条件の変化によって消滅してしまったものも少なくない。
[佐々木銀弥]