日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅原孝標」の意味・わかりやすい解説
菅原孝標
すがわらのたかすえ
(973―?)
平安中期の官人。右中弁菅原資忠(すけただ)の子。母は民部大輔などをつとめた源包の娘。993年(正暦4)に因幡掾(いなばのじょう)として昇殿。1000年(長保2)に六位蔵人となり、翌年、叙爵されて、その任を去った。このころ、右衛門尉(うえもんのじょう)や検非違使(けびいし)を兼任。菅原道真4世の孫であり、父資忠や子の定義が文章博士(もんじょうはかせ)および大学頭(だいがくのかみ)を経ている家系にあって、それらをつとめていないこと、娘が綴った『更級日記(さらしなにっき)』における孝標像などから、かつては凡庸な人物とみなされていた。しかし、蔵人頭をつとめた藤原行成の日記『権記(ごんき)』には、孝標が蔵人として活動するさまが散見される。また1027年(万寿4)には、右大臣藤原実資の娘、千古の家司を命じられており、そうした経歴をふまえた人物像の再評価もなされつつある。1017年(寛仁1)に上総介(かずさのすけ)、1032年(長元5)に常陸介となり、1036年秋、任期を終えて上京したあとは、官途を退いたらしい。
[西村さとみ]
『池田利夫著「菅原孝標像の再検討―更級日記との関連に於て―」(『国語と国文学』55-7・1978)』