萩原城跡(読み)はぎはらじようあと

日本歴史地名大系 「萩原城跡」の解説

萩原城跡
はぎはらじようあと

[現在地名]三良坂町灰塚・大谷

たき山の山塊から西へ張出す山の尾根を階段式に削り出した山城で、南縁を上下じようげ川が流れる。本丸以下幾つかの郭からなり、本丸には井戸跡、北側斜面には数本の竪堀もみられ、山城としての規模は大きく、この地方の典型的な戦国期の城といえる。

南天山なんてんざん(跡地は現吉舎町)の和智誠春が、田総氏の勢力圏との境にあたるこの地に、弟久豊に築かせたもので、久豊は在地名をとって湯谷又八郎久豊を名乗る。久豊は弘治三年(一五五七)二月の毛利氏親類衆年寄衆并家人連署起請文案(毛利家文書)には柚谷新三郎元家とあり、毛利元就以下一八名の傘連署のなかに兄誠春や一族の安田・上原両氏とともに加わっており、和智氏の有力な一族であったことが知れる。

萩原城跡
はぎはらじようあと

[現在地名]安佐北区白木町三田

安駄あんだ山の北、三篠みささ川左岸鳥井原とりいばら近くの山上にあり、「国郡志下調書出帳」に「古川ノ上山ニ有之、三田少輔七郎元実ノ本城にて能登守嫡備前守実重是に居城ス、備前守嫡六郎兵衛実正に至り、士官を辞して終に慶長年中農士に下る、依て廃城す」とある。三田氏の祖は三田新みたしん庄に東国から入部した永井氏といわれ、在地名によって三田氏を称したと伝える。毛利元春母方の祖父はこの地に住した三田入道という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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