葉室光忠(読み)はむろ・みつただ

朝日日本歴史人物事典 「葉室光忠」の解説

葉室光忠

没年:明応2.閏4.29(1493.6.13)
生年嘉吉1(1441)
室町後期の公卿権大納言教忠の子。父子ともども応仁の乱前から足利義視に親昵しており,乱中は西軍の陣中にあった。文明9(1477)年,父と共に朝廷室町幕府に帰参したと思われる。延徳2(1490)年義視の子義材(義稙)が将軍になると重用され,申次つまりは将軍の意志の仲介者として幕府の政務決裁の中枢を担った。明応2(1493)年2月には義材の強引な推挙によって上首18人を越えて権大納言に昇進している。しかし同年4月,義材は細川政元クーデタによって廃された。翌月25日義材が河内正覚寺で政元に投降すると,光忠は政元の命を受けた上原元秀の手で殺害された。

(末柄豊)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「葉室光忠」の解説

葉室光忠 はむろ-みつただ

1441-1493 室町時代の公卿(くぎょう)。
嘉吉(かきつ)元年生まれ。長享2年(1488)参議。延徳2年足利義稙(よしたね)が10代将軍になると重用され,その推挙で正三位,権(ごんの)大納言にすすむ。明応2年義稙が細川政元(まさもと)に追放されると,同年閏(うるう)4月29日河内(かわち)(大阪府)正覚寺で政元の命により殺された。53歳。

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