正覚寺(読み)しょうがくじ

精選版 日本国語大辞典 「正覚寺」の意味・読み・例文・類語

しょうがく‐じ シャウガク‥【正覚寺】

河内国渋川郡賀美(大阪市平野区)にあった寺。畠山政長細川政元に敗れた所。

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日本歴史地名大系 「正覚寺」の解説

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]大山崎町下植野

下植野しもうえの集落の東端にある。梶取山と号し、西山浄土宗、本尊阿弥陀如来。洛西三十三ヵ所観音第一一番札所。寺伝によれば、寛永年間(一六二四―四四)鏡空開道の創建という。客殿は下植野にあった帰海印きかいいん寺を移したもので、観音・不動像各二体、愛染明王・地蔵菩薩像などを安置する。帰海印寺は明治初年までに廃絶し、明治一〇年代の「京都府地誌」にも記載はないが、「山州名跡志」は「向黄山帰海印寺 千手院」として、真言宗、本尊は定朝作という千手観音と記し、続けて「開基僧不詳、伝曰昔平家世蒙流罪平判官泰頼少将成常於嶋祈帰洛、遂得感応帰京、其願成弁故所立而、鎮守熊野、木船神也、是便祈願故也、古堂跡東方半町計アリ、堆壇故号堂山」と述べている。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]沼田市 鍛冶町

鍛冶かじ町の西にあり、法蔵山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。真田氏時代城下絵図では鍛冶町西側一帯が当寺域となり、北接して正覚寺隠居、南には浄土宗浄心じようしん院の記載がある。伝えでは、応永一三年(一四〇六)正覚坊が根岸ねぎし(榛名村)に草庵を結び、戦利品として三尺の阿弥陀像(現本尊)を持帰ったのが始まりという。「吾妻記」によれば、天正一七年(一五八九)名胡桃なぐるみ(現利根郡月夜野町)の真田氏城代鈴木主水は、沼田城の北条氏城代猪俣邦憲に城を攻め取られ、鍛冶町にあった当寺で切腹している。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]行田市城西四丁目

江戸時代の持田もちだ村中組にある。大雄山摂受院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺蔵の宝永五年(一七〇八)由緒書によれば、開山は明誉智教、元亀二年(一五七一)の草創と伝える。明誉は駿河国の出身で、鎌倉光明寺二五世住持となった。光明寺から駿河国府中横内ふちゆうよこうち(現静岡市)の正覚寺へ移ったが同国が大乱になったため、おし城主成田氏長の懇請により同年九月忍領内持田へ移った。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]留萌市寿町

寿ことぶき町にある。仏生山と号する。曹洞宗。本尊観音菩薩。所伝では一八六〇年代前半ルルモッペ場所請負人栖原小右衛門のとき、場所支配人の相馬四郎兵衛が年々の死亡者の葬儀などに困っていたところ、乙部聖徳おとべしようとく(現乙部町)の住僧が観音像を捧持して当地沿岸一帯の化導教主になろうとルルモッペに来た。四郎兵衛は尊像を五両で譲り受け、コタン浜(現元町)に九尺四面の一宇を建てて安置し、海上安全と死者の冥福を祈ったという。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]長崎市東小島町

光寿山と号し、真宗仏光寺派。本尊は阿弥陀如来。慶長九年(一六〇四)道智の開基により創建されたと伝えるが(長崎志・長崎古今集覧)、同一〇年・同一一年ともいう(長崎根元記・崎陽群談)龍造寺隆信の一族という道智は天正一五年(一五八七)に出家、文禄三年(一五九四)に訪れた長崎がキリスト教の勢力下にあることを嘆き、仏法の再興を志したという。慶長九年に長崎奉行小笠原一庵は鍛冶屋かじや町の道智の屋敷地を広げて堂宇を建立し(光寿山正覚寺開祖伝)、京都西本願寺から寺号の免許を得ている。しかし同一二年の放火などキリシタンの妨害があり、てら(現浄安寺の地)に移転。元和元年(一六一五)本山から光寿山の山号を受けた。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]城南区東油山

あぶら山の北東麓にあり、海神社と近接する。東油山と号し、臨済宗東福寺派。本尊は千手観音。寺伝によれば天平年間(七二九―七四九)に唐僧清賀によって開かれたという。「続風土記」によれば往昔は泉福寺と号し、東油山ひがしあぶらやまにあった僧坊三六〇の別当坊で、開山は聖一国師四代の法孫平田慈均という。慈均は貞治三年(一三六四)京都南禅寺で没しているので、泉福寺開創は鎌倉時代末期から南北朝期となろうか。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]武生市京町二丁目

太西山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。貞治五年(一三六六)良如智水の開基で、南北朝時代斯波高経の拠った新善光寺しんぜんこうじ城跡を寺地とした。開基の良如は、越前真宗三門徒派の開祖大町専修おおまちせんしゆう(現福井市)の如導の嫡子と伝えており、当寺の開創後、応安年中(一三六八―七五)には敦賀つるがはら(現福井県敦賀市)西福さいふく寺を建立して移った。現在当寺の境内には観音堂・地蔵堂・大日堂・善光寺如来堂のほか、塔頭の摂取せつしゆ院・勝蓮しようれん院・善精ぜんしよう院・常照じようしよう院・昇雲しよううん院がある。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]宇部市大字吉見 岡村

厚東ことう川の右岸、吉見の岡村よしみのおかむらの山裾にある。浄土真宗本願寺派で関口山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「寺社由来」に

<資料は省略されています>

と開創の由来を記す。その後二世浄正が一向宗に改めたという。天文五年(一五三六)大洪水によって片河かたこう町が被害に遭い、宝物・古証文など一切を流失したので現在地へ移転、寛永七年(一六三〇)寺号を許された。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]福富町久芳

久芳くばの中ほどの独立丘陵ほり城跡の南東に位置し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。願成山と号するが、旧号は金竜山。もとたか山南麓にあった真言宗願成がんじよう寺の子院の一つと伝える。正徳(一七一一―一六)の調書に本寺願成寺が廃退したのち天文二年(一五三三)高田郡深瀬ふかせ(現甲田町)教徳きようとく寺の僧了雲(一に了西、雲晴ともいう)が当寺に入り再興して改宗したとも、また雲晴(結城信勝)という者が紀州高野山に入り、賀茂郡内に一寺を建てたが、のち久芳の金竜山真如院願成寺に転じたとも伝える(豊田郡誌)

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]有明町上津浦

内山うちやまの丘にある。円明山と号し曹洞宗。本尊釈迦三尊。正保三年(一六四六)の創建。開基鈴木正三、開山中華珪法。寺領一〇石(島鏡)。末寺に赤崎あかさき是誰ぜすい院・小島子こしまご功徳くどく庵・大島子おおしまご医王いおう軒、志柿しかき(現本渡市)普明ふみよう庵などがあった。本堂は創建当時のものだが、茅葺を瓦屋根に葺替えている。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]熱田区伝馬町四丁目

亀足山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。永享六年(一四三四)祐福ゆうふく(現愛知郡東郷町)の四世融伝永乗の創建。尾張三檀林の一。慶長六年(一六〇一)全焼した(「名古屋市史」社寺編)

一二世沢道俊山は日蓮宗常楽院日経と宗義を論議したが、日経が浄土宗をののしったため、これを幕府に訴え、慶長一三年、江戸城で宗論を行った。その前夜、日経は覆面の武士に襲われたため、戸板に乗って出場したが、満足にしゃべることもできず、日蓮宗が敗れた(「名古屋市史」社寺編)

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]奈良市西紀寺町

春日見山と号し、浄土真宗遣迎院派。本尊阿弥陀如来。通称十王じゆうおう堂。「奈良坊目拙解」には「在紀寺町領内於北頬、俗曰十王堂、律宗西大寺派、寺領廿石、興福寺末寺、本尊観世音、瓦葺小堂一宇西南都三十三所向順礼其一ケ所」とある。堂内には本尊観音菩薩と「天文廿一年十月造、空阿、定政」の墨書のある十王像を安置。往昔は法相・真言・律・浄土の四宗兼学の寺で、鬼界きかいヶ島(現鹿児島県の硫黄島)に流された俊寛が島を逃れて隠れ住んだところと伝えている。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]奈半利町 立町

町の中心、街道の南にある。高野山真言宗で高祷山自性院と号し、本尊弘法大師坐像。「南路志」所引の寺記によれば神亀元年(七二四)行基の開基と伝え、行基作の聖観音像を本尊としたが天正一一年(一五八三)に焼失。古くは金剛頂こんごうちよう(現室戸市)の末であった。天正一七年の奈和利庄地検帳には桑名丹後守の土居(奈半利城)のあった城村しろのむらに寺地一反四六代が記され、うち堂床は五代とある。寺領も田畑二三筆二町三反が記されるが、そのなかに法恩寺分四反も含まれるから、同寺は退転後正覚寺に吸収されたらしい。

慶長二年(一五九七)長宗我部元親の催した一宮千部経の読誦に出席し(一豊公紀)、上座に列しているのをはじめ、同年の秦氏政事記(蠧簡集)によれば、五町四六代の寺領をもって奈半利郷の庄屋を勤め、地下の行政面にも関与していた。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]青森市本町一丁目

西に常光じようこう寺、東に蓮心れんしん寺がある。無量山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと弘前誓願せいがん寺末寺。

開基は誓願寺塔頭の龍泉りゆうせん寺住持良故龍呑で、青森町に寺院のないのを憂えて藩主の許可を得、寛永五年(一六二八)寺屋敷を賜ったという。初め覚正かくしよう寺と称したが、藩祖津軽為信を祀る弘前の革秀かくしゆう寺と紛れやすいため正覚寺と改めたという(青森市史)

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]大垣市船町

当寺の現在地は、江戸時代のふな町西方、久瀬くぜ川流域にあたる。冷水山と号し、曹洞宗に属する。本尊は釈迦如来。寛永一三年(一六三六)全昌ぜんしよう寺文鏡の開山とされる。初め北の切石きりいし村にあったが、寛文五年(一六六五)現在地に移る(美濃明細記)。享保六年(一七二一)の地坪は東の愛宕神社を含め二六〇坪(「大垣町寺社并町中屋敷坪数帳」大垣市立図書館蔵)

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]須玉町若神子

若神子わかみこ集落を北に抜けた左手にある。陽谷山と号し、曹洞宗、本尊文殊菩薩。開基は武田義清で、天永三年(一一一二)密僧を請い開いた。大治四年(一一二九)父義光のために廟社を建て、文殊菩薩を安置したのが始まりという(寺記)。永享二年(一四三〇)密宗・玄栄両僧が復興。雲鷹を中興の祖とし、能登総持寺悦堂宗穆を招き開山とした。久しく天台宗であったが、このとき現宗派に改めた(甲斐国志)。もともとは朝日山正覚寺と号し、現在地の北西六キロほどの所にあったという(同書)

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]木津町木津町 西垣外

木津きづ川南岸に近く、旧奈良街道沿いにある。暁天山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。天正一二年(一五八四)木津大炊頭重高が創建し、開基は林把。天和年間(一六八一―八四)に焼失し、寛延二年(一七四九)忍誉の代に堂宇を再建したという。木津大炊頭重高は当寺の過去帳(「京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告」一〇)にその名がみえ、また毎年九月に行われた木津郷の神事座席の定席として「御霊宮材鋪木津大炊頭殿左座 正覚寺殿右座 天神宮同断同左座 同右座」とみえる。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]刈谷市寺横町

刈谷城の北に位置し、椎木しいのき屋敷と谷を隔てている。大音山と号し、真宗大谷派。阿弥陀如来を本尊とする。もと重原しげはら市場いちばにあり天台宗であったが、寛正元年(一四六〇)真宗に改宗。慶長六年(一六〇一)本願寺教如より親鸞ならびに顕如の絵像を下付された。いつの時代からか刈谷町に移り、稲垣氏が刈谷藩主の時代、境内一二間に一五間、宝永七年(一七一〇)阿部民部正良の転封とともに、その菩提所福泉ふくせん坊が他へ移転したので、そのあとに正覚寺を移転した。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]盛岡市上田二丁目

十劫山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来、光背に大日・釈迦・薬師の梵字がある。元文城下図によれば、上田うえだ組町の中ほど東裏に位置し、付近の地は俗に大道だいどうと称された。寺伝によれば、寛永三年(一六二六)念誉天龍によって開山、のち類焼にあったが、元治元年(一八六四)に再建。寺宝として志和稲荷本尊および大日社本尊を秘仏としている。前者は汗掻観音ともいわれ、明治維新の神仏分離の際、志和しわ稲荷神社(現紫波郡紫波町)の本地観音像が焼却されようとしたのを移したもので、高さ一尺三寸の白檀製の立像である。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]川辺町松瀬

松瀬まつせ集落の北部にある。浄土真宗本願寺派。解脱山と号し、本尊は阿弥陀如来。もと真言宗であったが、了正(川越長右衛門)の時、浄土真宗に帰依し改宗したといい、後、寛永七年(一六三〇)一〇月現寺号の公称を許可され、慶安三年(一六五〇)四月木仏本尊が下付されたという。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]岩出町高塚

高塚たかつか集落の南部にある。清浄山甘露王院と号し、新義真言宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると皇極天皇の時、自性の建立といい、古くは古義真言宗であった。享保一四年(一七二九)の岩出組寺方指出帳写(藤田家蔵)によると、灌頂および論講を行うことのできる寺であり、境内には護摩堂・鎮守天照あまてらす大神宮があり、古くは阿弥陀堂もあったが焼失したという。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]三和町東山田 沼影

八坂やさか神社の南に所在。十却山と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。境内の東に鐘楼、西に呑竜堂、正面に本堂が建つ。創立は天文二年(一五三三)・天正二年(一五七四)などの諸説があり、開山は現蓮社当誉玄哲で、現古河こが市の正定しようじよう寺開山と同一と伝える。

正覚寺
しようかくじ

[現在地名]脇野沢村脇野沢 桂沢

脇野沢集落の北に位置する。閑智山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「正覚寺 閑知山田名部徳玄寺末寺」とある。元禄四年(一六九一)の草創で、開基は田名部たなぶ(現むつ市)徳玄とくげん寺四世玄察という(新撰陸奥国誌)

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]岸和田市宮本町

浄土宗、山号日照山、本尊阿弥陀如来。創立年代不詳。寺伝によればもと真言宗で智光院円通えんつう寺と称したが、天正年間(一五七三―九二)紀州根来衆徒によって堂宇を焼かれた。文禄―慶長年間(一五九二―一六一五)に玉誉が来住して中興し浄土宗に改宗、現寺号に改めた。

正覚寺
しようがくじ

[現在地名]大治町花常 東屋敷

菩提山と号し、真宗高田派。本尊は阿弥陀如来。往古は天台宗で菩提山摂取院といい古道ふるみち(現美和町)にあったが、永禄六年(一五六三)当村に移り、高田宗に改宗し名を正覚寺とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「正覚寺」の解説

正覚寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報