詳、伝曰昔平家世蒙
流罪
平判官泰頼少将成常於
嶋祈
帰洛
、遂得
感応
為
帰京
、其願成弁故所
立而、鎮守熊野、木船神也、是便祈願故也、古堂跡東方半町計アリ、堆壇故号
堂山
」と述べている。
光寿山と号し、真宗仏光寺派。本尊は阿弥陀如来。慶長九年(一六〇四)道智の開基により創建されたと伝えるが(長崎志・長崎古今集覧)、同一〇年・同一一年ともいう(長崎根元記・崎陽群談)。龍造寺隆信の一族という道智は天正一五年(一五八七)に出家、文禄三年(一五九四)に訪れた長崎がキリスト教の勢力下にあることを嘆き、仏法の再興を志したという。慶長九年に長崎奉行小笠原一庵は
町の中心、街道の南にある。高野山真言宗で高祷山自性院と号し、本尊弘法大師坐像。「南路志」所引の寺記によれば神亀元年(七二四)行基の開基と伝え、行基作の聖観音像を本尊としたが天正一一年(一五八三)に焼失。古くは
慶長二年(一五九七)長宗我部元親の催した一宮千部経の読誦に出席し(一豊公紀)、上座に列しているのをはじめ、同年の秦氏政事記(蠧簡集)によれば、五町四六代の寺領をもって奈半利郷の庄屋を勤め、地下の行政面にも関与していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報