蔵持村(読み)くらもちむら

日本歴史地名大系 「蔵持村」の解説

蔵持村
くらもちむら

[現在地名]名張市蔵持町〈原出はらでさと緑が丘中みどりがおかなか緑が丘東みどりがおかひがし緑が丘西みどりがおかにし〉・富貴ふきおか一―四番町桔梗が丘ききようがおか一―六番町桔梗が丘南ききようがおかみなみ一―四番町・桔梗が丘西ききようがおかにし一番町

曲流する名張川を隔てて大屋戸おやど村の東に位置する。蔵持は阿保あお街道に沿う原出(原)と上野街道に沿う里および芝出しばでよりなるが、江戸時代から明治二二年(一八八九)の町村制施行までは街村型集落を形成する現原出と里を蔵持村とよび、芝出を狭田さた村とよんで区別した。治承四年(一一八〇)八月一六日の小野姉子田地売券(筒井寛聖氏蔵東大寺文書)に「簗瀬御庄字クラモチノ内マロイウ」とある。文永一一年(一二七四)二月日の大中臣是良田地作手売券(「伊賀国古文書」内閣文庫蔵)に「簗瀬御庄原」、永仁三年(一二九五)二月二八日の浄阿弥陀仏田畠作主職売券(百巻本東大寺文書)や正安三年(一三〇一)五月一〇日の宿淡路田畠売券(同文書)に「簗瀬御庄、字原郷内」とある原は、蔵持のはら(原出)をさすと考えられる。


蔵持村
くらもちむら

[現在地名]長南町蔵持

長南宿の南西に位置し、西方は市原郡境。応永二年(一三九五)三月四日の法印尚賢書下(鶴岡事書日記)矢貫やぬき・倉持両所とみえ、鎌倉鶴岡八幡宮の社家への年貢が未進となっているため、八幡宮は佐坪さつぼ郷政所に命じて委細を報告するよう命じている。乾元二年(一三〇三)倉持師経は市西しさい内海あま(現市原市)を安堵されているが(四月二二日「足利貞氏下文案」倉持文書)、この倉持氏は足利氏の根本被官で、当地を本貫の地とする説がある。


蔵持村
くらもちむら

[現在地名]前原市蔵持・曾根そね

香力こうりき村の東に位置し、雷山らいざん川が北流する。北は有田ありた村、東は三雲みくも村。永享六年(一四三四)九月二六日の室町幕府御教書(麻生文書/筑前麻生文書など)に「鞍持合戦」とみえ、同月六日大内持世と大友持直の合戦があった。明応八年(一四九九)怡土いと郡蔵持のうち五〇町が田尻中務少輔に預け置かれ(同年四月九日「大友親治知行預ケ状」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、永正五年(一五〇八)には倉持三ヶ名一九町余が同人に与えられている(八月一八日「真玉繁秀・富来繁持連署打渡状」同上)


蔵持村
くらもちむら

[現在地名]石下町蔵持

鬼怒きぬ川西岸に所在。かつては三方鬼怒川古間木ふるまぎ沼に囲まれていた。北は篠山しのやま村。「下総旧事考」は「本郡ニ蔵持村アリ。蔵持ハ車持ノ訛ナリ」として、当村を「姓氏録」左京皇別下にみえる車持公に関係があるとしている。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「蔵持之郷 卅貫文 御年(ママ)銭 斗物 夏秋ニ 六十俵」とある。明治二年(一八六九)正月二〇日と考えられる乍恐以書付奉願上候(長谷川家文書)によれば享保年間(一七一六―三六)には旗本森川肥前守の知行で、「各村旧高簿」によれば幕末には旗本森川織部の知行一八八石余と天領八六石余の相給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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