薬師村(読み)くずしむら

日本歴史地名大系 「薬師村」の解説

薬師村
くずしむら

[現在地名]竜王町薬師

鵜川うかわ村の南西に位置する。善光寺ぜんこうじ川と天井川である祖父そぶ川が並行して北流する。村の東部は平地であるが、西部はかがみ山南面の丘陵地で、西は山陵を介して野洲やす大篠原おおしのはら(現野洲町)・甲賀郡菩提寺ぼだいじ(現甲西町)。集落は祖父川西岸の山添やまぞえ(山副)、東岸のおき(隠岐)、南方の早溝はやみぞに三分され、沖・早溝は江戸時代、一村に扱われることもあった。地名は古代に薬草を貢納する部民が住していたことに由来するとの説もある。古くは医師とも記された。地内に残る正中三年(一三二六)三月二四日銘の石造層塔に「薬師一結衆」とみえ、永享二年(一四三〇)一二月二四日の円智坊承範寄進状(須恵八幡神社文書)にも「医師妙楽寺円智坊」などとある。永正一三年(一五一六)九月二七日、守護六角氏の奉行人進藤貞治らは当時永源寺領のあった当地および小口おぐちの名主・沙汰人・百姓中に対して、新たに勘料を課そうとする者たちに応じてはならないと命じている(「六角氏奉行人奉書」永源寺文書)中世の有力在地領主は六角氏被官の山副氏で、同氏は江戸時代に入り大庄屋も勤めている(「蒲生郡志」など)

永禄一一年(一五六八)織田信長の近江侵攻に際しては当地も戦場となり、同年九月一七日地内勝手かつて神社の堂宇・在家が焼亡している(同年一二月二一日「棟札」勝手神社蔵)

薬師村
やくしむら

[現在地名]金沢市薬師町

下涌波しもわくなみ村の北東に位置。北は森下もりもと川を挟んで不動寺ふどうじ村。正保郷帳によれば高三〇〇石余、田方一五町三反余・畑方四町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三三九石、免六ツ四歩、小物成は山役三四〇匁・鳥役七匁・綿役三匁・蝋役三匁・漆役一匁、鳥役は御鷹場に指定されたため同年までに役免除となった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数七・百姓数一六(高免付給人帳)

薬師村
やくしむら

[現在地名]浜松市薬師町

橋羽はしわ村の東に位置し、東海道が通る。「遠江国風土記伝」は古老の説を根拠に安間あんま村の分村とする。松平忠頼領郷村帳では高一一二石余、畑一三町五反、ほか安勝あんしよう(現曹洞宗安正寺)領三石。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳には「やくし村」とみえる。領主の変遷は西にし村と同じ。正保郷帳では田二七石余・畑八四石余、安正寺領三石、白山領三石。白山領三石は薬師新田村の分か。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図では本田一三七石余・新田五石余。同絵図には薬師新田村の東、安間川西岸に「薬師北島龍光安間入会」と記す。天保郷帳は古くは薬師村・薬師新田二ヵ村と注記して高二三七石余。

薬師村
やくしむら

[現在地名]奥尻郡奥尻町字松江まつえ・字湯浜ゆのはま

明治初年から明治三九年(一九〇六)までの村。赤石あかいし村の南、青苗あおなえ湾より北東側に位置し、松江漁港がある。「蝦夷巡覧筆記」に「ヤクシ、此処ゴロタ浜平山近ク木アリ、川有リ、幅三、四間」とある。明治四年戸井とい(現戸井町)の田久兵衛が渡島し、松江部落に居住して漁業を始めたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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