朝日日本歴史人物事典 「藤原妍子」の解説
藤原妍子
生年:正暦5(994)
平安中期,三条天皇の中宮。枇杷殿皇太后と称される。藤原道長と源倫子の娘。寛弘1(1004)年尚侍,次いで従三位に叙せられる。同7年,従二位に進み,東宮居貞親王(三条天皇)に入る。翌8年,親王の即位に伴って女御となり,長和1(1012)年には中宮に立った。翌2年に禎子内親王(陽明門院)を出産したが,天皇の外戚として摂関の地位を確保しようと図る父道長は,女子の誕生に不快の色を露にしたという。寛仁2(1018)年,皇太后となる。万寿4(1027)年には,禎子内親王を東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入れるも,病に倒れ,死に臨んで出家,34歳の生涯を閉じた。三条天皇は在位4年余で譲位し,彼女自身,親王を生むことはなかったが,大饗など折節の行事の際,仕える女房たちの華やかな装束で評判を集めていたことが,『栄花物語』などから知られる。
(西村さとみ)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報