蛇口村
へびぐちむら
[現在地名]軽米町蛇口
雪谷川支流の蛇口川に沿って形成された村で、北は円子村。天正一七年(一五八九)に種市中務は蛇口村一二六石余の替地を給され、子の蔵人吉広が移り住んで蛇口氏を称したという(参考諸家系図)。同一九年の九戸政実の乱に際し、蛇口弥助は九戸氏方に加わって滅亡したが、領地は南部方についた蛇口蔵人吉政が継いだとされる。蛇口の集落の東側丘陵上に弥助が拠ったといわれる蛇口館跡がある。寛永六年(一六二九)の南部利直知行宛行状(八戸種市文書)によれば、「糠部郡九戸之内蛇口村」一二六石余などが孫次郎に与えられている。
蛇口村
しやくちむら
[現在地名]庄内町東長宝 蛇口など
大分川に小挟間川が合流する地点の北東側に位置し、北西は岩下村。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷蛇口組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高七二石余・畑高八四石余、阿南庄に所属。柴山有り、日損所とも記されるが、慶安元年(一六四八)の長宝水井手完成により高二四〇石余に増え、うち一六二石余が同井手掛りとなった(三重野家文書)。旧高旧領取調帳では高二八六石余。
蛇口村
じやくちむら
[現在地名]高畠町蛇口
上平柳村の西、鬼面川右岸に位置。戦国期までは平柳郷に含まれ、天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録に「上長井平柳の内、ゆの村将監分、ちやくしかうや」とみえる「ちやくしかうや」は当地をさすとみられる。将監在家の小字名もある。
近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一五一石余、免五ツ、家数九(うち役家三・肝煎一)・人数二八。蒲生氏高目録帳では村柄は上。慶長三年(一五九八)上杉氏(のち米沢藩主)領となり(幕末に至る)、寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣三。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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