行徳領塩浜(読み)ぎようとくりようしおはま

日本歴史地名大系 「行徳領塩浜」の解説

行徳領塩浜
ぎようとくりようしおはま

近世に行徳領諸村の海浜に設けられた塩浜(塩田)で、生産された塩は行徳塩とよばれた。当地製塩業は幕府の保護を受けて発展し、近世前期まで江戸市場で消費される塩の最大の供給地であった。しかし寛永期(一六二四―四四)頃から十州塩・下り塩などと称された瀬戸内産の塩が江戸市場に進出、しだいにその地位を奪われた。その後は販路を北関東や奥羽・信越方面へ転じ、産量は減じたものの近代に入るまで生産は続けられた。なお当塩浜創業の様子やその後の盛衰経緯については宝暦六年(一七五六)以降に成立した塩浜由来書(国立史料館蔵、以下由来書と略)や明和六年(一七六九)の塩浜由緒書写(岩田家文書、以下由緒書と略)に詳しい。

〔塩業の始まりと製塩方法〕

当地で製塩が始められた年代を確定することはできないが、「江戸名所図会」は「事跡合考」を引いて「この地に塩を焼く事は凡そ一千年有余年にあまれり」と記している。由緒書によれば、往古より塩焼が行われていた上総国五井ごい(現市原市)に行徳領の者がしばしば出かけ、同所で見覚えてきたものという。初め本行徳ほんぎようとく村・欠真間かけまま村・みなと村の者が遠浅干潟塩田として、自家用の塩を焼いていたといい、由来書では小田原北条氏にも年貢塩を納めていたとする。関東入国後の徳川家康東金とうがね鷹野へ行く途中行徳領を通行、塩焼を見て「御軍用第一之事御領地一番之宝」として金子を下したという(由緒書)。これが幕府による当塩浜保護の最初であったと思われる。その後も幕府は「行徳領塩之儀ハ江戸御城下武家町家を始関八州上下之要用ニ罷成(中略)兵粮同事」の理由から保護政策を続け、二代徳川秀忠の時には金三千両、三代徳川家光の時は二千両を貸付け、返済は塩をもって行った(同書)。由来書によると、初期の塩浜付村々は堀江ほりえ猫実ねこざね当代島とうだいじま(現浦安市)新井あらい・欠真間・湊・押切おしきり伊勢宿いせじゆくせきしま・本行徳・下新宿しもしんしゆく河原かわら大和田おおわだ稲荷木とうかぎ妙典みようでん(上下の両妙典村を合せて)田尻たじり高谷こうや原木ばらき二俣ふたまた二子ふたご本郷ほんごう印内いんない寺内てらうち山野やまの西海神にしかいじん(現船橋市)の村々およびのちに武蔵国葛西領に転じた前野まえの(現東京都江戸川区)を含めた二六ヵ村であったという。寛永六年の検地で堀江・猫実・二子・本郷・印内・寺内・山野・西海神の八ヵ村は荒浜となり(ほか原木・二俣両村でも塩浜は確認されない)、元禄一五年(一七〇二)の検地の際、当代島・大和田・稲荷木・前野の諸村が塩浜付村々から除かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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