西光寺村(読み)さいこうじむら

日本歴史地名大系 「西光寺村」の解説

西光寺村
さいこうじむら

[現在地名]隼人町西光寺

囎唹そお郡国分郷うち村の北の山間部にあり、中央を東へ西光寺川が流れる。桑原くわはら日当山ひなたやま郷に属し、東は同郷東郷とうごう村、南は同郷朝日あさひ村。村名は康治元年(一一四二)創建された西光寺(三国名勝図会)にかかわると推測される。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)桑東くわのとう郷のうちとして西光寺、田守寺田のうちとして西光寺三反で三寸を負担とある。江戸時代には日当山郷の麓があり、地頭仮屋は茨山いばやま(射場山)に置かれた。慶長六年(一六〇一)には「西光村」のうち上之薗屋敷内高一三石余などが某に宛行われている(「知行目録」旧記雑録)


西光寺村
さいこうじむら

[現在地名]富山市水橋大正みずはしたいしよう

白岩しらいわ右岸に位置し、対岸池田館いけだたち村・池田町いけだまち村。かつて同川左岸にあったが、延宝五年(一六七七)氾濫による流路変更で右岸に位置し、白岩古川跡の輪中状の村となったという(水橋町郷土史)。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一〇一石・免四ツ。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では変化なく(三箇国高物成帳)、天保一一年(一八四〇)には打銀高一〇八石(「高免帳」杉木家文書)。所属組は伊勢屋いせや村と同じ。灌漑は常願寺川から引水した三郷さんごう用水を利用。


西光寺村
さいこうじむら

[現在地名]福崎町南田原みなみたわら

吉田よした村の東に位置し、いち川左岸の西光寺野とよばれる河岸段丘上に立地する。神東じんとう郡に属した。正応二年(一二八九)一二月二八日の後深草上皇院宣案(九条家文書)、同三年八月一一日の後深草上皇院宣案(同文書)などに田原庄内の寺院として西光寺がみえ、地名は同寺名による。慶長国絵図には西光寺とみえる。正保郷帳では田方二〇八石余・畑方二二石余、「野有」と注記される。天保郷帳では高三八九石余。寛延二年(一七四九)の姫路藩領一揆では当村の百姓二人が急度叱の刑に処せられている(「寛延一揆罪科人仕置書」九州大学法学部蔵)


西光寺村
さいこうじむら

[現在地名]勝山市鹿谷しかだに町西光寺

きようヶ岳の東裾に位置し、東は本郷ほんごう村、南は西俣にしまた村。地名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「保田村分」として「西光寺縄手」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「四ケ村上郷」に含まれていたと思われる。正保郷帳によれば田方一八五石余・畠方八五石余。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)大野藩領、天和二年(一六八二)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)美濃国郡上藩領、同一〇年再び幕府直轄領となり、享保五年(一七二〇)鯖江藩領、文久二年(一八六二)幕府領となった。


西光寺村
さいこうじむら

[現在地名]安心院町西衲にしのと

だい村の西に位置する山間部の村。西は有徳原うつとくばる村。地名は龍王りゆうおう城の西の守護寺として地内に建立された西光寺(現廃寺)に由来するという。天正一五年(一五八七)一二月二三日の佐田鎮綱知行坪付(佐田文書)深見ふかみのうちとして一三町六反「西光寺」とある。近世領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android