にし‐さかもと【西坂本】
- ( 「にしざかもと」とも ) 比叡山西側のふもとにあたる京都市左京区修学院・一乗寺の付近をいい、八瀬・大原までを含めて呼ばれた。比叡山東側の東坂本(滋賀県大津市坂本)に対する。
- [初出の実例]「兼てより今路西坂本(ニシサカモト)の辺まで抜々に行設けて」(出典:太平記(14C後)一七)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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西坂本
にしさかもと
[現在地名]左京区一乗寺・修学院付近
滋賀県大津の坂本(東坂本)に対する呼称で、比叡山西山麓雲母坂登山口付近一帯をさす古名。比叡山の山門僧兵が活躍した院政期より歴史上に登場した。特に僧兵が下山するとの風聞が達すると、朝廷は兵をこの西坂本に送り、僧兵の入洛を阻止する防御線とした。
天仁元年(一一〇八)三月の僧兵入洛は、延暦寺・園城寺二寺の連携のもとに行われたが、この時は「従台嶺所下向之大衆等、舁日吉神輿発向西坂本、神人衆徒数千人群集」(「中右記」同年四月一日条)したものであったし、また永久元年(一一一三)四月三〇日にも「又遣出羽守源光国并大夫尉平盛重於山西坂本、被止山大衆下向也」(中右記)と源氏・平氏の武将が西坂本に派遣されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の西坂本の言及
【比叡山】より
…山内は三塔(東塔,西塔,横川)に分かれ,さらに16谷と2別所に区分されて,それぞれ教学や修法を競った(図)。山下の東坂本(大津市坂本)には一山の護法神として日吉大社があり,政所や里坊がおかれて山上生活を支え,京都側の西坂本(修学院付近)や八瀬なども基地として諸院や下級の奉仕者集団が存在した。11世紀後半から中世を通じ,比叡山はその霊威と財力と武力により強大な支配力を誇った。…
※「西坂本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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