デジタル大辞泉
「一乗寺」の意味・読み・例文・類語
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いちじょう‐じ【一乗寺】
- [ 一 ] 兵庫県加西市坂本町、法華山上にある天台宗の寺。山号は法華山。白雉元年(六五〇)インドの僧法道仙人の開基と伝える。寛永五年(一六二八)本多忠政が堂宇を再建。西国三十三所の第二六番札所。絹本着色聖徳太子および天台高僧像、三重塔は国宝。
- [ 二 ] 京都市左京区南部、比叡山南西麓の地名。もと同名の寺院があったため呼ばれた。近江(滋賀県)に通ずる古路越、今路越の要所。石川丈山の詩仙堂(丈山寺)、芭蕉が住んだ金福(こんぷく)寺、曼殊院など旧跡が多い。また、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の場所としても有名。
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一乗寺
いちじようじ
[現在地名]加西市坂本町
周囲を山に囲まれた谷間にある。法華山と号し、天台宗。本尊は聖観音。古くは法華(法花)寺または法華山寺と称された。一乗寺とよばれるようになるのは江戸時代に入ってからである。西国三十三所観音霊場の第二六番札所として著名。御詠歌は「春は花夏は橘秋は菊いつも妙なる法の華山」。応保元年(一一六一)の近江三井寺覚忠の三十三所巡礼記(寺門高僧記)には第一四番に登場し、「同国印南郡法華寺、御堂九間、本尊等身金銅千手空鉢之守仏也、願主空鉢聖人」とある。巡礼の順序はこれ以降、時代によって変化している。当寺は印南郡内の狭隘な谷間に位置したが、飾東郡・加西郡に近接する三郡境の無縁の地であった。慶長国絵図では加西郡に属している。江戸時代に所在が印南郡か加西郡かで紛争が生じたが、元禄一二年(一六九九)に加西郡と確定された(内海家文書)。願主の空鉢聖人は法道仙人のこと。「元亨釈書」によれば、天竺(インド)の僧法道が白雉元年(六五〇)九月に大殿を落成したとされ、法道が鉄鉢を飛ばして供米を受けたとの伝説を記している。法道はもとより実在の人物ではないが、この伝説はかなり古い時代に成立していたものらしい。同書は法道を大和国長谷寺(現奈良県桜井市)開基の徳道と同一人物とみている。
伝説では白鳳期の開基となる。これを立証する史料はないが、加西郡は仏教文化が早くから開花した所で、繁昌廃寺・殿原廃寺・吸谷廃寺などの白鳳期の寺院跡が存在する。また当寺北方約三キロの笠松山南麓の古法華とよばれる山中にも白鳳期の三尊石仏像がある。
一乗寺
いちじようじ
[現在地名]麻生町富田
富田の南部、国道三五五号から東へ約一〇〇メートルにある。郡内では数少ない日蓮宗寺院で無二亦山と号し、本尊は日蓮像。寺内に建てられた「一乗精舎記」によれば、富田には多宝・観照・延寿の天台宗三院があったが、元禄一二年(一六九九)徳川光圀の命により無住の多宝・観照両院を廃し、延寿院主を退院させ、その跡を法華宗無二亦山一乗寺としたといい、改宗を強制された村民は不服であったがしだいに順化したという。
一乗寺
いちじようじ
[現在地名]枚方市岡南町
別子山の一角にある枚方城主本多氏ゆかりの寺。浄土宗、山号究竟山、院号往乗院、本尊阿弥陀如来。寺記によると、もと天台宗で山城洛北一乗寺村にあったが、現在地一帯が平安京の裏鬼門にあたることにより移され、伝教大師最澄が阿弥陀仏と日吉大神の像を刻し、王城鎮護の寺社と定めたことに始まるという。弘法大師も役行者・弁財天の二像を安置、天下鎮護の祈祷をしたと伝える。元久元年(一二〇四)法然の高弟で浄土宗鎮西派の祖聖光房弁長が、南海地方に念仏行脚に出る途中風雨を避けて当寺に留錫し、六字名号を残した。
一乗寺
いちじようじ
[現在地名]吉田町立間尻
立間尻浦を見下ろす山麓にあり、大信寺と海蔵寺の中間に位置する。最上山と号し、日蓮宗。本尊壱塔両尊。
創立は延宝九年(一六八一)の「吉田古記」によると、万治二年(一六五九)吉田藩主伊達宗純の開基。それ以前に茅堂・石仏などがあったとするが寺の形態はなしていなかったと思われる。
一乗寺
いちじようじ
[現在地名]伯太町井尻
市中屋にある。証誠山と号し、本尊は阿弥陀如来。浄土宗。「蓮門精舎旧詞」に「証誠山一乗寺 開山縁蓮社近誉上人慶長十五庚戌年三月十五日示寂、寺起立慶長九甲辰年」とある。延宝元年(一六七三)母里藩主の菩提寺となったと伝える。庫裏仏堂に寺宝として土佐絵、薬師如来像(平安期作)がある。
一乗寺
いちじようじ
[現在地名]松阪市中万町
山号は神山。天台宗。本尊薬師如来。近世は比叡山延暦寺安楽律院の末寺。康永三年(一三四四)八月日付法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「神山寺領」とみえる。後世の史料から考えて一乗寺のことであろう。文明一四年(一四八二)の飯野郡中万郷神山一乗寺勧進状(一乗寺文書)は、同一二年僧長阿が四八日不断念仏興行を志したところ、薬師如来の霊託があったと伝える。これによれば、文明年間長阿がこれを再興したことになるが、正確なところはわからない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
一乗寺
いちじょうじ
兵庫県加西(かさい)市坂本町にある天台宗の寺。法華山(ほっけさん)と号す。西国(さいごく)三十三所第26番札所。法道仙人の創立と伝える。法道はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に住んでいた500人の持明仙(真言を誦呪(じゅじゅ)し、神通力(じんずうりき)を得た仙人)の一人で、紫雲に乗って出、日本にきて法華山に住し、つねに法華を誦し、修行をしていたという。ある日、多聞天(たもんてん)や牛頭(ごず)天神が現れ、官租の米を運ぶ船から通力によって山中に米を飛ばした話などが伝えられている。また、法道は招かれて孝徳天皇の病を加護して効験があったため、平復ののち、650年(白雉1)勅令により寺が建てられたのが起源であるという。聖武(しょうむ)、孝謙(こうけん)、仁明(にんみょう)、後醍醐(ごだいご)天皇が臨幸し、勅願所(ちょくがんじょ)と定めたと伝え、赤松義祐(よしすけ)、本多忠政によって再興、修理された。
1174年(承安4)建立の三重塔(国宝)は平安時代の貴重な建築として知られるほか、妙見堂、弁天堂、護法堂、五輪塔は国の重要文化財に指定されている。寺宝には、平安時代の絹本著色画像として名高い「聖徳太子および天台高僧像」10幅(国宝)があり、とくに最澄(さいちょう)像は有名である。そのほか絹本著色阿弥陀如来(あみだにょらい)像、五明王像、銅造聖観音(しょうかんのん)像(2躯(く))、木造法道仙人像(いずれも国の重要文化財)などがある。
[田村晃祐]
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一乗寺 (いちじょうじ)
兵庫県加西市にある天台宗の寺。山号は法華山。白雉年間(650-655)に法道仙人が開いたと伝える。たびたび戦火に焼かれたが,1171年(承安1)建立の三重塔,平安後期の絹本著色聖徳太子像と天台高僧像10幅(いずれも国宝),また護法堂,妙見堂,弁天堂,五輪塔,聖観音菩薩立像,法道仙人像(いずれも重要文化財)などすぐれた文化財が多数残る。
執筆者:今井 雅晴
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一乗寺【いちじょうじ】
兵庫県加西市坂本町にある天台宗の寺。650年法道上人の開基と伝える奈良時代以来の名刹(めいさつ)。国宝三重塔は1171年―1174年建立されたもので,特色ある細部をもち,材料も完存していて,平安建築の貴重な遺構。ほかに聖徳太子及び天台高僧像10幅。西国三十三所第26番札所。
→関連項目加西[市]|文観
一乗寺【いちじょうじ】
京都市左京区,瓜生(うりゅう)山西麓一帯。古く一乗寺があった地で,近江に至る古路越,今路越が通じ,その岐路に宮本武蔵の決闘で有名な降松(さがりまつ)があった。詩仙堂,曼殊(まんしゅ)院がある。
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一乗寺
いちじょうじ
兵庫県加西市にある天台宗の寺。白雉1 (650) 年,法道上人の創立と伝えられる古刹。寺内の三重塔は数少い平安時代末期の塔で,国宝。承安1 (1171) 年に露盤をあげたことが銘によって判明している。同時代作の『聖徳太子および天台高僧像』 10幅 (国宝) ,その他古美術を多く蔵する。
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一乗寺
兵庫県加西市にある寺院。天台宗。山号は法華山。白雉年間(650~655)創建と伝わる。西国三十三所第26番札所。本尊は聖観世音菩薩。国宝の三重塔ほか、数多くの文化財を保有。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の一乗寺の言及
【法道仙人】より
…播磨国の法華山[一乗寺](加西市)を中心として十一面観音信仰を伝えたという仙人。天竺の霊鷲山(りようじゆせん)の五百持明仙の一人で,孝徳天皇(在位645‐654)のころ日本に渡来したという伝説上の人物。…
※「一乗寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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