西坂本村(読み)にしさかもとむら

日本歴史地名大系 「西坂本村」の解説

西坂本村
にしさかもとむら

[現在地名]岩出町根来ねごろ

葛城(和泉)山脈の南麓を通る淡島街道と、大和街道から分れて北上し、風吹かぜふき峠を越えて和泉国に至る根来往還とが交差する地に広がる大村。村の中央やや東寄りを根来川が南流、北部山麓には住持池じゆうじがいけ大門だいもん池・中左近なかさこ池などがある。南はあまつじ村・堀口ほりぐち村など。「続風土記」は「根来山へ登る阪の麓なるを以て坂本の名あり、西にあるを西坂本、東にあるを東坂本といふ、東西相去ること十六町余」と記す。粉河こかわ丹生にう神社蔵の金銅鳥頸太刀に文明二年(一四七〇)九月二七日の日付とともに「紀州根来寺坂本住人金物之大工左衛門尉家次」との銘がある。中世弘田ひろた庄に含まれた。

慶長検地高目録によれば村高一千四三三石余、小物成六斗三升九合。山崎組に属し、正徳元年(一七一一)の山崎組定免所指出帳(増田家蔵)によると、田七七町四反余で高一千三二三石余、畑九町二反余で高一一〇石余、家数一六七で内訳は庄屋三・肝煎二・本役六三・半役一〇・無役八九、人数九八八(男四九六・女四九二)、牛四一、馬一四。


西坂本村
にしさかもとむら

[現在地名]飯山町西坂元にしさかもと

川原かわはら村・東坂本村の西に位置し、西は土器どき川、北東部は飯野いいの山の南麓、東は大束だいそく川に挟まれた低地に立地する。府中ふちゆう(現坂出市)から善通寺に通じる道が通る。坂元とも記した。天正一九年(一五九一)八月一日の生駒近規宛行状(岩田文書)で、真時さんとき村・国持くにもち村において六八石分を岩田半三郎に安堵している。

寛永国絵図では坂本さかもと郷に村域内の国持・高柳たかやなぎが所属。


西坂本村
にしさかもとむら

[現在地名]姫路市書写しよしや書写台しよしやだい一―三丁目・菅生台すごうだい刀出栄立町かたなでえいりつちよう

飾西しきさい郡に所属。書写山円教えんぎよう寺の西の参道の登り口に位置し、東は東坂本村。中世は坂本(坂元)のうちに含まれていたが、当時から東坂本・西坂本の地名がみえる。正安二年(一三〇〇)撰の性空上人伝記遺続集(円教寺蔵)には、書写山理教りぎよう院の造立者法眼範性(播磨国司藤原範茂の弟)の大兄範資は播磨国の国務をつかさどり、「依此因縁西坂本立屋」と記される。大永年中(一五二一―二八)惣社走馬之記(智恵袋)によると、惣社(射楯兵主神社)走馬神事に「西坂元農長」の名倉藤助が奉仕している。慶長国絵図には「西坂本」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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