西宮宿
にしのみやしゆく
近世山陽道の宿駅。山陽道は西宮与古道町で中国街道と合流し、西宮宿の中心である本町筋を通って西宮神社の表大門(赤門)に突き当り、南下してすぐに西へ折れて神社の塀沿いに西進、夙川を渡って兵庫宿(現神戸市兵庫区)へと向かう。西宮以東は与古道町から北上して広田村に至り、下大市村・上大市村を経て段ノ上村の髭の渡で武庫川を渡り、昆陽宿(現伊丹市)、瀬川宿・半町宿(現大阪府箕面市)を経て山崎宿(現同府島本町・京都府大山崎町)から伏見(現京都市伏見区)に至る山崎通ともよばれる道である。また中国街道は今津村・鳴尾村を経て尼崎から大坂へと通じる。なお市域の山陽道は時代とともにルートが変わっている。近世初頭の慶長国絵図では、昆陽から広田村に至り、西宮町に入ることなく南西方向に直進して越水村から打出村(現芦屋市)へと向かっており、このルートは古代・中世の山陽道をほぼ踏襲したものとみられている。しかし中世後期に越水城が築かれると西宮はその外港として重要視され、越水から西宮へ向かう八町畷が造られた。慶長国絵図にも描かれているこの道によって、越水城下と西宮は町続きとなり、そのため山陽道は越水で南下し、西宮を経由して西へ向かうようになったと考えられている。ところが中世末期に越水城が廃城となると八町畷は廃れ、おそらく元和―寛永期(一六一五―四四)の宿駅制の整備のなかで、山陽道は広田村で南下し、中国街道と合流して西宮に入るルートに変わり、そのまま定着した。
西宮は広田神社別宮の南宮の門前町として、また瀬戸内海の海運・漁業の根拠地の一つとして早くから開けた地で、治承四年(一一八〇)には藤原忠親が福原へ向かう途中「西宮宿所」で一泊している(「山槐記」同年八月二二日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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