改訂新版 世界大百科事典 「篠山藩」の意味・わかりやすい解説
篠山藩 (ささやまはん)
丹波国多紀郡篠山に藩庁を置いた譜代の藩。1608年(慶長13)八上城に入封した松平(松井)康重が,翌年篠山に平山城を築いて篠山城と名づけ初代城主となった。以後松平(藤井)氏2代,松平(形原)氏5代,青山氏6代が相継いだ。石高は当初5万石であったが,老中を30年務めた青山忠裕(ただやす)が功として1827年(文政10)1万石加増された。藩主はいずれも徳川譜代の大名で,幕府の要職に就く者が多かったため出費がかさみ,重税に対する農民の不平が一揆となって16件も発生している。なかでも1771年(明和8)の全藩一揆は農民4000人ほどが城下に押し入り,大庄屋宅などを打ちこわして首謀者69人が処罰された。山間の盆地にあるため米や茶以外の産業に恵まれず,西宮,伊丹などへ杜氏(とうじ)として季節的に出稼に行く〈百日奉公〉が盛んになったが,藩は労働力の移動を規制し1710年(宝永7)以来何回も禁止令を出している。1692年(元禄5)松平(形原)信庸は伊藤仁斎の弟子松崎蘭谷を登用して治績をあげた。1751年(宝暦1)には青山忠朝が漢学者関文平を招き,嗣子忠高は66年(明和3)藩校振徳堂を創設した。天明年間(1781-89)忠裕によって養正斎,成始斎が増設され,化政期(1804-30)になると文武両科の教科目が制定されるなど学問の面でみるべきものが多い。1868年(明治1)1月山陰道鎮撫使西園寺公望一行に降伏した。
執筆者:野田 只夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報