日本大百科全書(ニッポニカ) 「西川春洞」の意味・わかりやすい解説
西川春洞
にしかわしゅんどう
(1847―1915)
明治の書家。唐津(からつ)藩士元琳(げんりん)の子で、江戸の藩邸(日本橋本町)に生まれる。名は元譲、字(あざな)は子謙。別に如瓶人(じょへいじん)、大夢道人、謙慎書堂主人と号した。生家は代々藩医を勤め、医を志したが、幼時より書を祖父亀年(きねん)に学ぶ。5歳で中沢雪城の門に入り、また漢学を平田彬斎(ひんさい)に、写真術を下岡蓮杖(しもおかれんじょう)に学ぶ。幕末の政変期には、父に従って活躍。1874年(明治7)28歳で大蔵省に出仕したが、やがて辞し、向島(むこうじま)に居を構えて書道の研究、指導に専念した。書は初め元(げん)の趙子昂(ちょうすごう)風であったが、のち漢魏六朝(かんぎりくちょう)から清(しん)時代に至るあらゆる古碑法帖(ほうじょう)を研究し、ついに一家をなした。日下部鳴鶴(くさかべめいかく)と併称され、多くの弟子を養成、門下から諸井春畦(もろいしゅんけい)、武田霞洞(かどう)、豊道春海(ぶんどうしゅんかい)らの俊秀を出した。詩画、篆刻(てんこく)も巧みで、すべての文人趣味にも精通していた。書家西川寧(やすし)はその長男。
[角井 博]