広義には印材に文字を刻すことをいい,秦・漢以来,印文には多く篆書を用いるところから篆刻と称した。狭義には中国で元末に起こり明代に広まった,詩・書・画・篆刻と並称される文人四芸の一つで,多く書画などの雅事に用いる印章をみずから鉄筆(刀)を用いて主に蠟石(木,竹,陶土もある)に刻する石章篆刻をいう。
中国の印章の制作は,殷代の遺物が発見されており,その後春秋・戦国を経て秦の始皇帝の天下統一ののち,印章上の文字は秦書八体の第五〈摹印篆(小篆)〉に統一された。漢代には諸制度が十分整備されたのに応じて,印制が整い,その制作は一極点に達した。その文字は周到な鋳造工程を経て丹精であり,章法や鈕(ちゆう)制に多種多様な意匠が見られる。その用途と性質は官印と私印とに二大別される。官印には皇帝,皇后,諸属国王,列侯から将軍,守,令,長等の璽(じ)や印章がそれに属し,身分によって金,銀,銅,玉などが使用された。王侯と文官の印章は多く鋳成されたが,玉印や将軍印など武官印は戦乱など緊急事態に即応するために,多く鑿成(さくせい)つまり刀で刻された。篆書を刻すということで,ここに広義の篆刻の始原をみる。私印は先秦以来存在するが,形態,鈕式に定制がなく,その名のとおり有力な人物が姓名などを個人的に作らせたもので,ほとんどが銅製で鋳印,鑿印の両様があり,玉製のものもみられる。これらは用途や性質が狭義の篆刻,つまり文人達によって興った近代篆刻と称されるものの先がけをなすといえるであろう。
漢の太平が破れ,三国・両晋・南北朝と争乱のうち続く世となると,印制そのものは漢を襲ったが,作印が草卒の間になされるものが多くなり,粗悪な鑿印が多くなった。唐王朝が天下を統一すると,印制はこの間の紙の普及という革命的変化によって,従来の封泥に捺(お)した印の用途が紙に印朱(泥)をつけて捺すというものに変わり,印式も印文字も一変した。そしてそれは私印と官印とで相反する二方向をとり,私印は実用を優先して判読しやすくするため,文字は篆書ばかりでなく,隷書,楷書,さらに行書,草書まで使用されるようになった。一方,官印は宋以後になるとより鮮明になるが,印影に権威を帯びさせ,偽造を防ぐために大きさは方寸(3cm四方)から方2~3寸に変わり,文字は筆画が屈曲折畳する九畳篆と呼ばれる繁密な書体になった。
宋代には金石学が非常に発達し,そのころさかんに出土しだした古銅器とともに古印の研究が始まった。とりわけ徽宗は古印を多く収集し《宣和印譜》4巻(不伝)を作らせたという。このころから単に学問の対象としてのみでなく,印泥をつけて紙に捺した印影を鑑賞する下地が作られたと考えられ,その後続々と集古印譜が登場してくる。元代になると,それまで開図書人という印判職人による古印の典型を失った,芸術性の乏しい篆刻を,風雅な文人芸として位置づける動きがおこった。趙孟頫(ちようもうふ)は《印史》を著し,円潤で含蓄のある玉筯文を採用することを主張した。吾邱衍(ごきゆうえん)(1268-1311)は,篆刻に必要な知識を35条に要約した《三十五挙》を著し,秦・漢を学ぶことが必要であり,篆書を知り,まず篆法から入らねばならないと主張した。この両家の復古運動の秦漢古印の伝播は,明代の篆刻開花の最も大きな要因になった。それに加えて元末の王冕(おうべん)(1335-1407)が,それまで動物や雑器の彫刻に使われていた青田花乳石が柔らかくて刻し易く外観が美しいことに着目して印材に使用して以来,にわかに文人間に広まり,石章篆刻が始まった。この石は葉蠟石と称されるアルミニウムケイ酸塩鉱で,浙江青田県・昌化県,福建閩侯県寿山郷などにも産し,それぞれ特色のある色,模様,石質をもっている。そのうち,寿山の田黄と称される材のように温潤な色艶が好まれ,同じ重さの黄金と同値で売られるほど珍重されるものもあらわれた。収蔵印等,文雅な用途に印材の美を翫賞(がんしよう)することも加わり,ますます読書人の文房の具として石印は流行していった。
明代の文彭(1498-1573)は書画に巧みであったほか,兼ねて篆刻の名手であり,宋・元以来の曲がりくねった篆書を方正なものに改めて,刻印を芸術の域にまで高め,〈呉門派〉の領袖として近代文人篆刻を創始した。彼の弟子の何震(?-1604)は刀法が蒼勁で師にまさり,石章篆刻を不動のものとし,〈徽派〉の始祖と称された。〈徽派〉には,梁袠(りようちつ),蘇宣,朱簡,江皜臣(こうこうしん),程朴,汪関など十数家が次々と輩出し,このころになると,文人の余技としてでなく,印人と称される印学に詳しく刻印を業とする専門の篆刻家があらわれ,彼らは多く安徽・浙江の両省に集中し作品は印譜にまとめられた。
清代になると,考証学がおこり,古印や封泥や他の文字資料の出土もますます多くなりそれらの出版物が次々と出されて,篆刻芸術は新たな段階をむかえた。〈皖(安徽の古称)派〉の創始者は程邃(ていすい)(1605-1691)で,初め何震を宗としたが,その後大小篆文を融合させた新意ある刻風を完成させた。その門には,巴慰祖,胡唐,汪肇竜などがあり,秦・漢の古印をよく摹仿(もほう)し,元・明の古法と巧妙な調和を図った。その影響は康煕(1662-1722)から嘉慶(1796-1820)に至る清朝前期に非常な声威をもった。〈浙派〉は杭州人の丁敬(1695-1765)をはじめとして,蔣仁,黄易,奚岡のいわゆる西冷四家と,やや後の陳鴻寿,銭松,陳予鐘,趙之琛を加えた西冷八家をいう。その刻印は漢印を宗とし,石印材の欠けやすい特質を生かし,巧妙な用刀によって線を刻した方勁古拙な刻風は,従来の繊弱で柔媚な習気を一洗した。この石章独特の美を開いた刻風は後世に大きな影響を及ぼしている。〈鄧派〉の鄧石如は清朝第一と評された書法上の造詣により,その刻印は剛勁渾朴,豊満円潤で一派を創始し,その弟子の呉廷颺(ごていよう)(煕載)は碑版の源流に対して深く研究し,それに見られる刀法を刻印にまじえて流麗優雅な篆刻の新天地を開いて,印壇の老化現象を改めた。
清代後期,各派それぞれがマンネリ化したとき,趙之謙が出て,鄧派・浙派を兼ねて学ぶとともに,篆刻の領域を秦・漢・六朝の諸文字資料にまで広げた。清末の呉俊卿は先秦の石鼓文や金文を習い,封泥の世紀末的腐爛した雅味を加えて新風を創始し,以後の中国だけでなく日本にも強い影響を及ぼしている。その他,黄牧甫,斉白石などが傑出し,それぞれ一派をなした。
中国の近代篆刻が日本に広まるのは,明王朝滅亡で,独立や心越が日本に亡命してきて江戸初期の文人達に伝えてからである。それは明末・清初風のいわゆる方篆雑体のきわめて装飾的なもので,秦・漢の古印の風格はなかったが,その華麗な作風は世の人に好奇の眼で迎えられた。水戸に住んだ心越の直伝を受けた榊原篁洲をはじめ今井順斎,細井広沢,池永一峯の四家は初期江戸派と称され,互いに交遊があり,明人の篆刻趣味を広く文人のあいだに広めた。これよりややおくれて,元文(1736-41)から宝暦(1751-64)にかけて,江戸から浪華(なにわ)に移り住んだ新興蒙所(にいおきもうしよ)が活躍し,初期浪華派を興した。その門には佚山,都賀庭鐘,里東白がおり,刻風は初期江戸派とほぼ変化はない。当時,文化のもう一つの拠点に長崎があり,ここは中国の学芸のもたらされた門戸であり,印人も多く出ている。これらを長崎派といい,源伯民,膝永孚,永田島僊子,趙陶斎がその代表である。このような篆刻の流行と並行して篆刻に関する研究書や印譜が次々に刊行され,加えて大和古印の研究もおこり,ますます文人間に広まった。
江戸時代の最も大きな影響を及ぼした印人は京都の高芙蓉である。彼はそれまで流行した方篆雑体を低俗としてしりぞけ,秦漢印を尊び,古体の正制への復古を提唱した。しかし,当時漢印の実物はほとんど見ることができず,中国の復古派の洗練された印とは大きな開きがあるが,その作の高雅さは及ぶものがない。その門には,曾之唯,葛子琴,前川虚舟,紀止,初世浜村蔵六など多数の逸材を出し,明治の初めにいたるまで,大きな流れとなって日本の印壇を風靡した。その他,文人学者で篆刻をよくするものに,頼春水,頼山陽などの頼一族や篠崎小竹,青木木米,貫名海屋(ぬきなかいおく),田辺玄々がいる。江戸末になって,芙蓉流に新風を加えた者に細川林谷,2世浜村蔵六,益田勤斎,曾根寸斎がおり,姸麗清新な作風は次代発展への基礎となった。
明治の初めには,中村水竹,安部井櫟堂,羽倉可亭,山本竹雪,中井敬所などが活躍した。1880年,楊守敬が碑版帖を携えて来日すると,新しい碑学派の書道が興り,篆刻では清朝浙派の刻風が篠田芥津らによって移入された。この他,中国に渡航して,鄧派の流れをくむ呉煕載,徐三庚,趙之謙,呉昌碩らに直接学んで帰朝した者に,円山大迂,初世中村蘭台,桑名鉄城,5世浜村蔵六,河井荃廬らがいる。こののち,以前の流派はすたれ,清末の新しい作風が日本の篆刻界を支配するようになった。
→印章 →書体
執筆者:田上 恵一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
書画の落款(らっかん)印など、実用以外の趣味的な印を彫ること。とくに職人に任せず、文人墨客が自分でやることをいう。
中国では古代から印章が用いられたが、もっとも盛んに使われ、発達したのは漢代(前202~後220)であった。11世紀ごろ(宋(そう)代)から古代の銅器や碑文を研究する新しい学問(金石学(きんせきがく))がおこって、漢代の印章も研究や鑑賞の対象とされるようになり、やがて文学と同じように、印章にも復古が唱えられるようになる。15世紀(明(みん)代)になると、彫りやすくて美しい石材が発見されて、従来の象牙(ぞうげ)などと異なり、アマチュアにも容易にできるようになったので、書や画と同様、文人が競ってこれを手がけるようになった。その結果、職人芸にない新しい境地が開拓されたことは、文人画の場合と同様である。そして、多くの優れた文人の手を経て、やがて詩、書、画と併称されるほどの、高い評価を得るに至った。明中期の文彭(ぶんほう)(1498―1573)、何震(かしん)(生没年不詳)らはその創始者である。清(しん)代になると、丁敬(ていけい)(1695―1765)らによって、漢印の研究によるさらに新しい発展をみる。彼の出身地の浙江(せっこう)省杭州(こうしゅう)の雅名にちなんで「浙派(せっぱ)」とよばれる一大勢力をなすに至る。清代はまた金石学完成の時期でもあり、篆刻もそれに伴いいっそう興隆し、鄧石如(とうせきじょ)、呉譲之(ごじょうし)、趙之謙(ちょうしけん)らの名手が相次いで現れ、清代末期から中華民国の初年にかけて活躍した呉昌碩(ごしょうせき)は旧中国の最後を飾る大家であり、また日本への影響も大きかった。新中国でも篆刻はなお盛んに行われて、斉白石(さいはくせき)のごときは「人民芸術家」として優遇されていた。
日本には江戸時代の初期に明朝文化とともに伝えられ、高芙蓉(こうふよう)のように古印の研究にまで手を伸ばした人物も現れたが、作家として注目すべきものが現れるのは明治になって清末の新傾向の導入まで持ち越される。初代中村蘭台(らんたい)と河井荃廬(せんろ)はこの時期に前後して活躍した大家である。荃廬は呉昌碩の影響を受けて精緻(せいち)な作風を完成し、それを現代の篆刻界にまで投影した。山田正平(しょうへい)(1899―1951)も一時その教えを受けた。2世中村蘭台は父とはまったく異なる様式を独創し、山田とともに近年でもっとも高く評価された作家である。ともに日展の篆刻の審査員であった。現代の中国では清朝以来の穏健な作風が主流をなしているようであるが、日本では自由奔放な表現が、とくに展覧会などでは流行しており、それにはこの2人の影響があるようにみえる。
アマチュアの仕事として出発したものであるから、材料は蝋石(ろうせき)系の石を用い、彫るのには「鉄筆」とよばれる両刃の小刀1本だけで、あまり小細工をせずに仕上げる。押す印面を鑑賞するばかりでなく、側面に彫られた落款は「側款(そくかん)」とよばれ、これも重要視される。そして、単なる「つまみ」から発達して美しい小彫刻となった「鈕(ちゅう)」とともに、石材の多種多様なことは、印材そのものも別に趣味家の愛玩(あいがん)するところとなり、また名家の作品を押し集めて冊子とした「印譜(いんぷ)」は独立して研究・鑑賞の対象とされ、収集家も多い。
[伏見冲敬]
『神田喜一郎他編『書道全集別巻Ⅰ 印譜・中国』『書道全集別巻Ⅱ 印譜・日本』(1968・平凡社)』▽『羅福頤著、安藤更生訳『中国の印章』(1965・二玄社)』▽『羅福頤著、北川博邦他訳『印と印人』(1982・二玄社)』
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…印文が陰刻であるのは封泥に印したとき鮮明に文字があらわれるためである。漢印の鑑賞は宋代に始まり,明・清以降盛大になり,後世の中国の篆刻に芸術的影響を与えたが,その結果,漢印の伝世品のなかには模造されたものも多く,厳重な鑑定が必要である。その点近年出土した実物は確実な証拠として尊重され,陝西省咸陽韓家湾出土の〈皇后玉璽〉,同陽平岡出土の〈朔寧王太后璽〉,山東省嶧県出土の〈平東将軍章〉などの優品がある。…
※「篆刻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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