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日下部鳴鶴 くさかべ めいかく

美術人名辞典の解説

日下部鳴鶴

書家。滋賀県生。名は東作、字を子暘、別号野鶴・鶴叟等。初め巻菱湖・貫名菘翁の風を慕うが、楊守敬来朝により、大きな影響を受ける。のち中国に遊び兪曲園・呉大澂・楊見山・呉昌碩らと交わった。その格調高い書風で近代書道界に多大な影響を与える。大正11年(1922)歿、85才。

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デジタル大辞泉の解説

くさかべ‐めいかく【日下部鳴鶴】

[1838~1922]書家。滋賀の生まれ。名は東作。字(あざな)は子暘(しよう)。六朝(りくちょう)書道を学び、清国に渡って書学を研究。明治書道界の第一人者で、その書風は鳴鶴流とよばれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日下部鳴鶴 くさかべ-めいかく

1838-1922 明治-大正時代の書家。
天保(てんぽう)9年8月18日生まれ。もと近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩士。明治2年太政官大書記官となり,12年辞任。13年清(しん)(中国)の楊守敬(よう-しゅけい)が来日すると巌谷一六(いわや-いちろく)らとともに魏六朝(かんぎりくちょう)の書法をまなび,六朝書道とよばれる新書風をうちたてた。大正11年1月27日死去。85歳。作品に「大久保公神道碑」。本姓は田中。名は東作。字(あざな)は子暘(しよう)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

日下部鳴鶴

没年:大正11.1.27(1922)
生年:天保9.8.18(1838.10.6)
明治大正時代の書壇の第一人者。彦根藩士田中惣右衛門の次男。22歳で彦根藩日下部家の養子となる。名は東作。字は子暘。号を東嶼,翠雨,鳴鶴と改めた。晩年,野鶴,老鶴,鶴叟の別号も用いた。24歳のとき京都に出て書に志を立て,『蘭亭序』に酒を供え専念学習を誓った。このころ,貫名海屋の書に感銘して私淑。明治2(1869)年,上京し官吏となり,累進して太政官大書記官となる。三条実美,大久保利通の信任を受けたが,利通暗殺を契機に官を辞し,書学に専念する。13年,楊守敬が漢魏六朝の碑版・法帖を携えて来日すると,巌谷一六らと約5年その書法を研究,廻腕直筆の用筆法を修得し,独自の書風を築いた。24年,清国に遊歴し「東海の書聖」と賞揚される。帰国後,同好会を発足させて後進の育成を図り,読書会を起こし文人墨客との親交を深めた。80歳の折に,門弟を集め大同書会を創立し,機関紙『書勢』を発行。勅命により揮毫した「大久保公神道碑」は代表作のひとつ。<参考文献>井原雲涯『鳴鶴先生叢話』

(山内常正)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

くさかべめいかく【日下部鳴鶴】

1838‐1922(天保9‐大正11)
書家。近江彦根の人。名は東作,字は子暘。彦根藩士日下部三郎右衛門の養子となったが,桜田門の変で父は殉死した。1869年(明治2)東京に出て太政官大書記となったが,後年は書をもって身をたてた。はじめ巻菱湖(まきりようこ)の書風を学ぶが,80年に来朝した楊守敬の影響を受けて六朝書道を研究,のち清国にも遊学して見聞を広め,深い学識と高古な人柄とによって彼の書名は一世風靡した。現代書道発展の先駆者として,その功績は高く評価されている。

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大辞林 第三版の解説

くさかべめいかく【日下部鳴鶴】

1838~1922) 書家。彦根の人。本名、東作。字あざなは子暘。野鶴とも号す。清の楊守敬に啓発されて漢・六朝書道の書法を研究。特に漢隷は一世を風靡ふうびし、多くの門下生を輩出。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日下部鳴鶴
くさかべめいかく

[生]天保9(1838).8.18. 江戸
[没]1922.1.27. 東京
明治,大正の書家。旧姓田中,のち日下部家の養子となった。名は八十八のち東作。字は子暘。号は鳴鶴,東嶼,翠雨,野鶴など。彦根藩士で明治になって太政官に奉職し,大書記官となった。書は初め巻菱湖 (まきりょうこ) ,貫名海屋 (ぬきなかいおく) らに,次いで 1880年来朝した清の楊守敬に学んだ。さらに 91年中国に渡って古法をきわめ,謹厳で気迫に満ちた鳴鶴流を完成し,明治以降の唐様書道界に君臨した。主要作品『草書七絶条幅』 (1897頃) ,『南紀瀞渓詩』 (1918) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日下部鳴鶴
くさかべめいかく
(1838―1922)

明治・大正の書家。名は東作、字(あざな)は子暘(しよう)、鳴鶴はその号。彦根(ひこね)藩士田中惣右衛門(そうえもん)の二男で、のちに同藩の日下部三郎右衛門(さぶろうえもん)の養子となる。1869年(明治2)東京に出て太政官(だじょうかん)の大書記となり、三条実美(さねとみ)、大久保利通(としみち)らの厚い信任を得る。79年、前年の大久保暗殺事件を契機に辞職、もっぱら書家としてたつ。ときに42歳。翌年、楊守敬(ようしゅけい)が来日、金石学や漢魏六朝隋唐(かんぎりくちょうずいとう)の拓本多数をもたらして、わが国書壇に一大旋風を巻き起こした。鳴鶴は巌谷一六(いわやいちろく)らとともに熱心に師事、深く傾倒した。楊守敬から学んだ新しい書法は六朝書道とよばれて新時代を画し、それによって大きく変貌(へんぼう)を遂げた鳴鶴の書風は、以後のわが国書道の動向に大きな影響を与えた。彼は門弟数百人を擁する書壇の雄であり、楷(かい)行草隷各体に巧みで、全国各地にその筆になる碑文が残されている。[尾下多美子]

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