西新田村(読み)にししんでんむら

日本歴史地名大系 「西新田村」の解説

西新田村
にししんでんむら

[現在地名]尼崎市大庄西町おおしようにしまち一―四丁目・武庫川町むこがわちよう一―四丁目・元浜町もとはまちよう一―五丁目・丸島町まるしまちよう大島おおしま三丁目・大庄中通おおしようなかどおり四―五丁目・水明町すいめいちよう大浜町おおはまちよう道意町どういちよう五丁目

東新田村の西に位置し、西は武庫川を隔てて小松こまつ(現西宮市)北端を中国街道が通る。中世は東新田村とともに新田と称した。慶長国絵図に村名がみえ高五六九石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では高四四七石余、幕府領(建部与十郎預地)領主変遷生津なまづ村に同じ。寛永五年(一六二八)に高一二七石余のはま新田が開発され、同二〇年には高一八〇石余の角右衛門かくえもん新田、貞享二年(一六八五)一石余のうし新田が開発されたほかに、惣新田として寛永一五年に高一六二石余、同一七年に高五九石余、正保四年(一六四七)には高一一七石余、承応二年(一六五三)高五石余の計高三四四石余、合せて高六五四石余の新田が開発された(元禄一一年「国絵図御用村々書上留帳」岡本家文書)。この新田は、元禄七年(一六九四)に尼崎藩主青山幸督が弟青山幸澄に内分知した新田二千石の一部となった(尼崎市史)


西新田村
にししんでんむら

[現在地名]岩瀬町岩瀬

岩瀬盆地中央にあり、東は本新田ほんしんでん村、北は岩瀬村。村の北部に桜川が蛇行して流れる。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には堰一があり、岩瀬村・本新田村青柳あおやぎ村など山外やまそと郷の村々から普請人足が出ている。また御林一があり、本新田村・岩瀬村との入会で落葉・下草刈、川除け、道路普請に使われるとともに農民の家造りの材木にも払下げられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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