西村 栄一
ニシムラ エイイチ
- 肩書
- 民社党委員長,衆院議員(民社党)
- 生年月日
- 明治37年3月8日
- 出生地
- 奈良県北葛城郡香芝町
- 学歴
- 下谷高小卒
- 経歴
- 貧しい農家の生まれで、小学校を出ると上海のおじを頼ってフランス高等学院に学ぶ。大阪に帰って保険会社の給仕となり、31歳で大阪支店長。昭和6年全国労農大衆党中央委員。8年堺市議。全国サラリーマン組合を結成したが半年で官憲の解散命令。21年戦後初の総選挙で衆院議員に当選、社会党河上派に属し、23年芦田内閣の経済安定本部政務次官。28年2月の衆院予算委員会で吉田茂首相に質問中、吉田が“無礼じゃないか”と叫んだのに“何が無礼か、答弁できないのか君は”とやり返し、吉田の“バカヤロウ”が飛び出して、いわゆる“バカヤロー解散”を引き起こす。左右両社の統一に反対、35年の民社党結成で西尾末広と行動を共にした。37年の党大会での初の公選で曽根益と争って書記長、42年西尾の後を受けて2代目党委員長に就任。
- 没年月日
- 昭和46年4月27日
- 家族
- 息子=西村 真悟(衆院議員)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
西村 栄一
ニシムラ エイイチ
昭和期の政治家 民社党委員長;衆院議員(民社党)。
- 生年
- 明治37(1904)年3月8日
- 没年
- 昭和46(1971)年4月27日
- 出生地
- 奈良県北葛城郡香芝町
- 学歴〔年〕
- 下谷高小卒
- 経歴
- 貧しい農家の生まれで、小学校を出ると上海のおじを頼ってフランス高等学院に学ぶ。大阪に帰って保険会社の給仕となり、31歳で大阪支店長。昭和6年全国労農大衆党中央委員。8年堺市議。全国サラリーマン組合を結成したが半年で官憲の解散命令。21年戦後初の総選挙で衆院議員に当選、社会党河上派に属し、23年芦田内閣の経済安定本部政務次官。28年2月の衆院予算委員会で吉田茂首相に質問中、吉田が“無礼じゃないか”と叫んだのに“何が無礼か、答弁できないのか君は”とやり返し、吉田の“バカヤロウ”が飛び出して、いわゆる“バカヤロー解散”を引き起こす。左右両社の統一に反対、35年の民社党結成で西尾末広と行動を共にした。37年の党大会での初の公選で曽根益と争って書記長、42年西尾の後を受けて2代目党委員長に就任。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
西村栄一
にしむらえいいち
[生]1904.3.8. 奈良
[没]1971.4.27. 東京
政治家。第2次世界大戦前社会大衆党に属し,1933年堺市議となる。戦後 46年の総選挙に大阪から当選。以来連続 11回当選。社会党右派の政策通として知られ,53年2月,ばかやろう解散の引き金となった衆議院予算委員会における吉田首相との論戦は有名である。 60年1月民主社会党 (民社党) 結成に参加。 62年 10月書記長,67年6月西尾末広引退後の第2代委員長となり,没するまで在任した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西村栄一 にしむら-えいいち
1904-1971 昭和時代後期の政治家。
明治37年3月8日生まれ。戦後社会党の結党に参加し,昭和21年衆議院議員(当選11回)。28年衆議院予算委員会での吉田茂首相との質疑応答が「バカヤロー解散」をひきだす。37年民社党書記長,42年委員長。昭和46年4月27日死去。67歳。奈良県出身。上海フランス国民高卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
西村 栄一 (にしむら えいいち)
生年月日:1904年3月8日
昭和時代の政治家。民社党委員長;衆議院議員(民社党)
1971年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の西村栄一の言及
【民社党】より
…1960年1月に社会党を離党した[西尾末広],西村栄一らを中心に結成された政党。94年,解散。…
※「西村栄一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」