社会大衆党(読み)シャカイタイシュウトウ

デジタル大辞泉 「社会大衆党」の意味・読み・例文・類語

しゃかいたいしゅう‐とう〔シヤクワイタイシユウタウ〕【社会大衆党】

昭和7年(1932)安部磯雄を党首に、社会民衆党全国労農大衆党との合同により成立した政党。反資本・反共・反ファシズム三反主義を掲げ勢力を伸ばしたが、しだいに右傾化。同15年解散。
沖縄社会大衆党」の略称。

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精選版 日本国語大辞典 「社会大衆党」の意味・読み・例文・類語

しゃかいたいしゅう‐とうシャクヮイタウ【社会大衆党】

  1. 昭和七年(一九三二)全国労農大衆党と社会民衆党とが合同して結成した社会民主主義政党。委員長安部磯雄。反資本主義・反ファシズム反共産主義の三反主義をスローガンとする唯一の合法無産政党として活動したが、日中戦争の勃発後は急速に右傾して党内に対立を生じ、同一五年七月解党。社大党。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会大衆党」の意味・わかりやすい解説

社会大衆党(昭和前期の政党)
しゃかいたいしゅうとう

昭和初期に全国労農大衆党と社会民衆党の合同によって結成された無産政党。1931年(昭和6)の満州事変開始直後、国内に侵略主義熱が高まるなかで、無産政党からも国家社会主義に転向する人々が出現したため、孤立を恐れた両党の大同団結が実現した。結党は32年7月24日。委員長安部磯雄(あべいそお)(旧社民系)、書記長麻生久(あそうひさし)(旧日労系)。社会民衆党の三反主義(反資本主義、反共主義、反ファシズム)を継承し、反戦闘争を放棄して、労働者・市民・農民の生活防衛や日ソ中立条約締結などをスローガンに運動を行った。麻生ら一部幹部は、既成政党を打倒して政権を獲得することを目ざし、ファッショ的な軍部幕僚層を「革新勢力」とみて提携しようとした。34年には陸軍パンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」の説く「広義国防論」を支持し、36年には二・二六事件を賛美した。他方同党は唯一の大衆的無産政党としてファッショ化を阻止する役割を果たすことを願う人々の支持をも集め、36、37年の総選挙で「先(ま)づ国内改革の断行!」を掲げて躍進した(37年選挙では37名が当選)。また左派の労働組合などは、同党が反ファッショ人民戦線の主体となることを期待したが、同党はこれを拒否、37年日中戦争が起こるといち早く戦争協力の姿勢を示した。同年11月の大会で「国体の本義に基づき……」という新綱領を決定して階級闘争を否定、直後の人民戦線事件では関係者を即時除名した。また近衛文麿(このえふみまろ)内閣に迎合して電力国家管理法案や国家総動員法案を積極的に支持した。このため、右翼による安部委員長襲撃事件や、国家総動員法に積極的に賛成し「スターリンのごとく」邁進(まいしん)せよと近衛内閣を激励した西尾末広代議士除名問題にみられるように、伝統的右翼や既成政党の反感を買った。38年の党大会では新建設大綱を決定し、全体主義を原則とする党となることを明確にし、翌年国家社会主義系右翼政党である東方会との合同を策したが失敗した。この間、旧社会民衆党系と旧日本労農党系の対立が激化し、主流派となった旧日労系幹部は、40年斎藤隆夫(たかお)代議士除名問題で除名に反対する安部委員長ら旧社民系代議士7名と水谷長三郎(みずたにちょうざぶろう)を党から除名し、同年7月6日近衛新体制運動に参加するため他の政党に先駆けて解党した。

[吉見義明]


社会大衆党(沖縄)
しゃかいたいしゅうとう

アメリカ軍占領下の1950年(昭和25)10月31日、沖縄群島知事選挙で当選した平良辰雄(たいらたつお)を委員長とし、その支持者らが中心となって結成された政党。民主的な社会政策の実施、国際正義に基づく新琉球(りゅうきゅう)の建設などを掲げた。党は農民、漁民、中小商工業者ならびに一般勤労者の結合体と定められたが、沖縄政財界の有力者らも加わり、傾向としては中道左派に近い。1951年3月、党大会を開いて、いち早く日本復帰運動を進めることを決議。同年4月には人民党などとともに日本復帰促進期成会を結成、沖縄県祖国復帰協議会(1960年4月結成)に参加するなど、沖縄復帰運動に大きな役割を果たした。1972年の復帰実現後、沖縄各政党の本土への系列化が進むなかで同党は唯一、沖縄県の地方政党として存続。参議院沖縄選挙区選挙や沖縄県知事選挙などでは、社共共闘の触媒役を果たした。その後、社共間の離反に伴って日本共産党との関係は薄れたが、1995年(平成7)9月のアメリカ兵による少女暴行事件を契機に沖縄米軍基地縮小・返還要求の気運が高まるなかで、共産党との共闘関係が復活した。沖縄における大衆集会や選挙での共闘関係の核となる革新的政党として、根強い影響力をもっている。

[藤井 正・五十嵐仁]

『比嘉良彦・原田誠司著『地域新時代を拓く――沖縄社会大衆党論』(1992・八朔社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「社会大衆党」の意味・わかりやすい解説

社会大衆党 (しゃかいたいしゅうとう)

1932年7月全国労農大衆党社会民衆党の合同により結成された社会民主主義政党。満州事変直後,日本国内に侵略主義的熱狂状態が生じ,無産政党の中からも赤松克麿,松谷与二郎など国家社会主義に転向する人々が続出した。このため孤立を恐れた両党は合同することによって危機をのりきろうとした。委員長安部磯雄(旧社民系),書記長麻生久(旧日労系)として結党し,機関紙《社会大衆新聞》を発行。社会民衆党の三反主義(反資本,反共,反ファシズム)を継承して,戦争に反対せず,反共主義の立場をとり,他方で露骨な国家社会主義とも一線を画した。労働者,市民,農民の生活防衛を掲げて運動した。麻生ら一部幹部はファッショ的な軍部幕僚層を〈革新勢力〉とみてこれに接近し,陸軍パンフレット支持(陸軍パンフレット事件),二・二六事件賛美などの言動をくり返した。36,37年の総選挙では,唯一の大衆的無産政党である社会大衆党はファッショ化を阻止する役割を期待する労働者,市民層などの支持をも集めて躍進し,37名の代議士を擁するに至ったが,同党は反ファッショの姿勢をとることを拒否した。37年日中戦争がおこるといちはやく戦争協力を表明し,綱領を改定して階級闘争を否定し〈国体の本義〉に基づいて行動することを明らかにした。人民戦線事件では関係者を即時除名し,電力国家管理法案や国家総動員法案に対しては〈戦時革新政策〉とみて積極的に賛成した。さらに37年秋の党大会で新建設大綱を決定し,全体主義を原則とする国民の党となることを目標に掲げ,39年東方会との合同を策したが,これは失敗した。この間,党の路線をめぐって旧社民系と旧日労系との対立が激化し,主流派となった旧日労系幹部は40年斎藤隆夫代議士除名問題(反軍演説問題)で除名に反対する安部委員長ら旧社民系代議士7名と水谷長三郎を党から除名し,同年7月6日新体制運動に率先参加すべく他政党にさきがけて解党した。
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百科事典マイペディア 「社会大衆党」の意味・わかりやすい解説

社会大衆党【しゃかいたいしゅうとう】

1932年全国労農大衆党社会民衆党とが合同して結成した合法の無産政党。委員長は安部磯雄で,反資本・反共・反ファシズムを掲げ初期には反軍的行動をとったが次第に右傾化し,1940年近衛文麿新体制運動を唱えると,直ちに解党してこれに合流した。
→関連項目浅沼稲次郎麻生久河上丈太郎人民戦線事件鈴木文治

社会大衆党(沖縄)【しゃかいたいしゅうとう】

沖縄社会大衆党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「社会大衆党」の意味・わかりやすい解説

社会大衆党
しゃかいたいしゅうとう

日本の政党。 1932年7月 24日に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して結成。安部磯雄が委員長,麻生久が書記長となった。満州事変以後,政治的,社会的に国内が動揺していたのに乗じて,旧政治勢力,軍部に対する第三勢力をつくることを目指した。「資本主義の打破」「無産階級の解放」などをスローガンに掲げ,軍需インフレ反対,農村救済などの運動を推進し,唯一の合法無産政党として勢力を拡大した。麻生派が主流派となり,33年のいわゆる陸軍パンフレット事件以後,軍に接近し,親軍工作に踏切り,「転換期日本の建設政策」を発表して,国民政党の色彩を強めた。日中戦争が起ると「聖戦協力」を唱え,また,人民戦線事件では関係者を除名。 37年「国体の本義」に基づく新綱領を採択し,38年,国家総動員体制に協力しつつ,全体主義への支持を強めた。 39年に東方会と合同を試みたが失敗し,安部が率いる旧社民系と,麻生の旧全労系の対立が深まり,40年斎藤隆夫の反軍演説をめぐって除名に反対した安部,片山哲西尾末広ら旧社民系8人を除名した。麻生をはじめ旧全労系の主流派は近衛文麿の新体制運動を積極的に支持し,新党に参加するために 40年7月6日他の党にさきがけて解散した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「社会大衆党」の解説

社会大衆党
しゃかいたいしゅうとう

1932年(昭和7)7月全国労農大衆党と社会民衆党が合同して結成された単一無産政党。委員長安部磯雄,書記長麻生久。主導権を握った旧全国労農大衆党の麻生・田所輝明,旧社会民衆党の亀井貫一郎らは陸軍の一部や革新官僚勢力と接近して方針転換を進めた。当初は不振だったが,36・37年の総選挙で躍進し,最大時37の議席をもった。日中戦争が始まると戦争遂行に協力。第1次近衛文麿内閣に対しては与党のようにふるまって国家総動員法を支持,38年の近衛新党運動には麻生・亀井らが中核として参加した。40年反軍演説を行った斎藤隆夫除名問題を契機に一部が分裂,主流派は同年近衛新体制運動に参画し,7月解党した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「社会大衆党」の解説

社会大衆党
しゃかいたいしゅうとう

昭和前期の社会民主主義政党(1932〜40)
満州事変勃発後,社会民衆党と全国労農大衆党が合併し結成。委員長は安部磯雄,書記長は麻生久。反資本・反共・反ファシズムの立場をとり,満州国承認・国際平和を強調,日中戦争ころよりしだいに右傾化し,新体制運動に伴い解党。

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世界大百科事典(旧版)内の社会大衆党の言及

【解放】より

…(3)第3次 34年10月には渡辺潜を編集発行人として清談社から再び発行された。この《解放》は第2次の巻号を継承しているが,従来のものとは異なり総合雑誌の形をとらず,社会大衆党系の政論雑誌の性格をもっている。執筆者には,主宰者の麻生久のほか,田所輝明,菊川忠雄ら同党系の論者が多い。…

【無産政党】より

…1932年2月の総選挙で無産政党は得票26万票,当選5人と不振をきわめた。32年7月,社民党と全国労農大衆党は合同し,社会大衆党(社大党,委員長安部)を結成した。同党は労働組合の右翼的戦線統一とも密接なかかわりをもち,三反主義(反資本主義・反共産主義・反ファシズム)の方針を掲げたもののその〈反ファシズム〉はあいまいであった。…

※「社会大衆党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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