民主社会党(読み)みんしゅしゃかいとう

精選版 日本国語大辞典 「民主社会党」の意味・読み・例文・類語

みんしゅしゃかい‐とう‥シャクヮイタウ【民主社会党】

  1. 民社党旧称

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「民主社会党」の意味・わかりやすい解説

民主社会党
みんしゅしゃかいとう

日本の政党。1960年1月24日結成。1959年9月日本社会党大会で,西尾末広に反党的な発言があったとの理由で懲罰動議が可決されたのを機に,西尾派と河上丈太郎派の一部が脱党して結党。初代委員長は西尾。民主社会主義旗印に掲げ,資本主義左右全体主義に対決する国民政党,との暫定綱領を決めた。しかし,同 1960年11月の衆議院議員総選挙で解散時の 40議席が 17議席に減り,民主社会党の唱える中道路線は自由民主党と社会党に挟まれ,伸び悩みの状態となった。1967年6月西村栄一が委員長になり,1969年民社党と改称。綱領を,民主社会主義の原理に立つ,階級政党でなく国民政党である,社会主義社会の実現,暴力革命に反対,国際的平和維持に努力する,などとした。支持母体は全日本労働総同盟(同盟)。1971年8月春日一幸が委員長に就任。連合政権を看板に戦った 1980年6月の衆参同時選挙では,両院とも期待したほどの勢力拡大はならず,衆議院では 32議席を得るにとどまった。その後も党勢は挽回できず,1993年7月の総選挙は 15議席に終わった。大内啓伍委員長は非自民連立の細川護煕内閣に参加したが,羽田孜内閣誕生の際の統一会派「改新」の結成問題などから退陣,1994年6月から米沢隆が委員長。同 1994年12月9日に開かれた臨時党大会で解党し,翌 10日発足した新進党に参加した。

民主社会党[ドイツ]
みんしゅしゃかいとう[ドイツ]
Partei der Demokratischen Sozialismus; PDS

東ドイツの支配政党であった社会主義統一党 SEDの後身。 SEDは 1946年4月共産党と社会民主党左派の合同により結成された。 49年「民主ドイツ国民戦線」を旧東ドイツの他の4政党およびその他の組織とともに結成し,支配政党になった。当初の第一書記は W.ウルブリヒト。 71年にウルブリヒトが第一書記を辞任。 E.ホーネッカーがあとを継いだ。 76年に第一書記を書記長に名称変更。 89年秋からの民主化によって政権党の地位を失い,90年2月には現党名に変更した。同年 12月に行われた東西ドイツ統一後初の総選挙で 17議席を獲得。続く 94年 10月の総選挙では 30議席,98年9月の総選挙では 36議席獲得と確実に党勢を伸ばしている。さらに 98年に行われた旧東ドイツ地区のメクレンブルクフォアポンメルン州議会選挙では第3党となり,社会民主党との連立政権を組み,初の政権入りを果した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「民主社会党」の意味・わかりやすい解説

民主社会党
みんしゅしゃかいとう
Partei des Demokratischen Sozialismus ドイツ語

ドイツ連邦共和国の政党。略称PDS。前身はドイツ社会主義統一党Sozialistische Einheitspartei Deutschlands(SED)で、1946年ソ連占領地区に共産党と社会民主党とが合同して成立し、ウルブリヒト(1950~1971)、ホーネッカー(1971~1989)の指導の下、政権政党としてドイツ民主共和国(旧、東ドイツ)を担ってきた。1989年後半民主化の要求が高まると、10月ホーネッカーは解任され、エゴン・クレンツEgon Krenz(1937― )が書記長になった。だが、11月「ベルリンの壁」が崩壊すると、クレンツら指導部は総退陣し、新党首ギジGregor Gysi(1948― )はスターリン主義を捨て民主的社会主義を唱えて、党名もドイツ社会主義統一党・民主社会党、さらに1990年2月には民主社会党と改め、右翼急進主義や外国人排斥に反対し、環境を重視する社会的な市場経済を綱領に掲げた。

[吉田輝夫 2018年8月21日]

 2007年、「選挙オルタナティブ・雇用と社会的公正(WASG:Arbeit & soziale Gerechtigkeit - Die Wahlalternative)」と合同し、左翼党となった。

[編集部 2018年8月21日]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「民主社会党」の解説

民主社会党
みんしゅしゃかいとう

日本社会党内の左右両派の対立により,右派の指導者西尾末広らが脱党し,1960年(昭和35)1月に結成した政党。69年民社党と改称。87年の連合結成までは全日本労働総同盟が支持母体。94年(平成6)12月,新生党・公明党・日本新党などと新進党を結成し,衆参両院あわせて24人が参加。民社党の党名は解消した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「民主社会党」の解説

民主社会党
みんしゅしゃかいとう

1960年1月24日,日本社会党右派が分裂結成した政党
委員長西尾末広,最高顧問に片山哲。マルクス主義を排し,民主社会主義を掲げて,資本主義と左右の全体主義に対決することを主張。全日本労働総同盟(同盟)を支持基盤とする。'70年民社党と改称。'94年新進党結成に伴い解党。

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世界大百科事典(旧版)内の民主社会党の言及

【民社党】より

… 日米安全保障条約の段階的解消を唱える西尾は,1959年9月13日,その言動につき社会党統制委員会の議に付託されるや,ただちに新党構想を発表し,17日再建同志会を結成,10月25日社会党を離党した。河上派の一部も同調して離党,両者は60年1月民主社会党(略称民社党)を結成した。衆議院40名,参議院17名,委員長西尾。…

【ブラジル】より

…この時期は,競争的・民主的政治の時代もしくは人民主義の時代として知られているが,その実態は代表民主主義というよりは,パトロン・クライアンテリズムpatron‐clientelism(クリエンテス)に基づく政治であった。この時代の主要な政党は,バルガス支持者が結成したブラジル労働党(PTB)と民主社会党(PSD),反バルガス派が結成した国民民主連合(UDN)の3党であるが,いずれも長期的綱領やイデオロギーに基づく政党というよりも,地域的・個人的性格の強いグループが緩やかに結合しただけのきわめてプラグマティックな政党であった。すなわち,各地の有力政治家はカーボ・エレイトラルcabo eleitoralと呼ばれる選挙屋を使って,公職・公共事業契約その他の報酬と引換えに票を集めさせ,その過程でイグレジーニャigrejinhaと呼ばれる個人的な親分・子分関係を形成した。…

※「民主社会党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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