西玄甫(読み)にしげんぽ

改訂新版 世界大百科事典 「西玄甫」の意味・わかりやすい解説

西玄甫 (にしげんぽ)
生没年:?-1684(貞享1)

江戸前期の西洋医学に通じた医師,大通詞で,西流外科一派をなす。南蛮通詞西吉兵衛の子。母は肥前国佐賀の西次郎右衛門の娘。初名新吉通称吉兵衛。南蛮語をよくし,1653年(承応2)父の後をうけて大通詞となるが,69年(寛文9)病に託してその職を辞する。ポルトガル人C.フェレイラ(日本名,沢野忠庵)に学び,ことに西洋外科に通じ,杉本忠恵とも交わった。彼の外科は西流外科と称された。73年(延宝1)江戸に出,幕府医官となり,参勤通詞目付を兼ね,法眼に叙せられる。忠庵がローマ字で書いた邦語の天文書を訳読し,向井霊蘭に筆記させて《乾坤弁説》を著す。また穎川藤左衛門との共著《諸国土産書》がある。杉田玄白の《蘭学事始》で彼と西流外科に触れられている。甥に西玄哲がいる。
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朝日日本歴史人物事典 「西玄甫」の解説

西玄甫

没年貞享1.9.17(1684.10.25)
生年:生年不詳
江戸前期の南蛮・阿蘭陀通詞,蘭方医。初代西吉兵衛の子。西家2代目。長崎の生まれ。初名は新吉,承応2(1653)年吉兵衛と改名。父の跡職を継ぎ大通詞となり,寛文9(1669)年退職。南蛮外科を転びバテレンフェレイラ(沢野忠庵)に学び,次いで紅毛外科を出島オランダ商館医に修学,同8年医学証明書を取得。ここに南蛮・紅毛両流の西流外科が確立。延宝1(1673)年出府を命ぜられ,幕府の宗門改めの参勤通詞目付と外科医官を兼ね,江戸西久保に屋敷を拝領,玄甫と改名。向井元升と共に忠庵の天文書を翻訳・註釈した『乾坤弁説』を呈上。唐通事穎川藤左衛門と共著『諸国土産書』がある。

(吉田厚子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西玄甫」の意味・わかりやすい解説

西玄甫
にしげんぽ

[生]?
[没]貞享1(1684)
江戸時代初期の医師。西流外科の祖。旧名は吉兵衛。医学およびポルトガル語を沢野忠庵 (→フェレイラ ) に学ぶ。承応2 (1653) 年父の1世吉兵衛の跡を継いで通詞となり,延宝1 (73) 年幕府の宗門改め参勤通詞ならびに医官となった。天文書『乾坤弁説』の訳述に関係したが,これはバテレンが持参した書を井上筑後守の命で沢野忠庵がローマ字に和訳し,それを玄甫が日本文字にし,向井元升が解説したもので,日本最初の西洋翻訳書といえる。ほかに『諸国土産書』 (69) の著書がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西玄甫」の解説

西玄甫 にし-げんぽ

?-1684 江戸時代前期の蘭方医,オランダ通詞(つうじ)。
父の初代吉兵衛の跡をつぎ大通詞となる。沢野忠庵(フェレイラ)らに西洋医学をまなび,外科医として幕府につかえ,医官と参勤通詞目付をかねた。貞享(じょうきょう)元年9月17日死去。肥前長崎出身。通称は別に吉兵衛。著作に「阿蘭陀(オランダ)外科」「乾坤(けんこん)弁説」「諸国土産書」など。

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