西紺屋町(読み)にしこんやまち

日本歴史地名大系 「西紺屋町」の解説

西紺屋町
にしこんやまち

[現在地名]姫路市紺屋町

姫路城南の外曲輪に位置する町人町。東紺屋町の西にある東西の町筋。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。寛永八年(一六三一)の那波宗顕譲状(前川家蔵那波文書)や慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図には「ぬしや町」(塗師屋町)と記され、西のたて町までを境とした。寛文七年―天和二年(一六六七―八二)の姫路城下図以降は西紺屋町と記される。姫路町書上帳、元文五年(一七四〇)の姫路町飾万津町地子銀控によると家数五六・地子銀四五七匁余。


西紺屋町
にしこんやちよう

[現在地名]中央区銀座ぎんざ一―四丁目

南紺屋町の南西、御堀端通に沿って南に続く片側町。東はゆみ町・新肴しんさかな町・弥左衛門やざえもん町、南は勘左衛門かんざえもん屋敷。国役町。寛文新板江戸絵図や延宝江戸方角安見図では南紺屋町二丁目から同四丁目とあり、沿革図書の延宝年中(一六七三―八一)の図では西紺屋町となっている。安永三年小間附町鑑では京間一六七間半、国役の染物御用を勤める。名主は坂部五郎左衛門(同小間附町鑑、宝暦七年万世町鑑)


西紺屋町
にしこうやまち

[現在地名]小倉北区田町たまち竪町たてまち一丁目

西曲輪の紺屋町で、東は田町一―二丁目に接し、西に外堀がある。「コンヤ町」とも(寛政年間「小倉図」豊前叢書)町並南北に連なり、北は武家屋敷が並ぶ。元和九年(一六二三)当時「西ノ紺屋町」の土手際の家屋に虎落が施されていた(永青文庫蔵「御用覚書帳」同年五月一九日条)


西紺屋町
にしこんやまち

[現在地名]和歌山市西紺屋町一―二丁目

東紺屋町西の南北に長い町人町で、表紺屋おもてこんや町ともいった(紀藩街官司秘鑑)。文政一三年(一八三〇)南を一丁目、北を二丁目とした(「御触書写」道成寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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