西野川村(読み)にしのかわむら

日本歴史地名大系 「西野川村」の解説

西野川村
にしのかわむら

[現在地名]阿波町 井手口いでぐち早田わさだ大原おおはらなど

久千田くちた村・中野なかの村の北に位置し、西部大久保谷おおくぼだに川が南流する。天正一九年(一五九一)検地帳があったとされる。慶長二年(一五九七)の分限帳に「西川村」とあり、高五〇石余が安富左市郎、高一七石余が岩田七左衛門の知行分。慶長九年の検地帳(久勝町史)では田方一一町八反余・高一一三石余、畠三〇町三反余・高一四六石余。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図および正保国絵図では「西川村」とし、高二六一石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では「西野川村」として田方一一六石余・畠方一四四石余、旱損注記がある。


西野川村
にしのかわむら

[現在地名]すさみ町佐本西野川さもとにしのかわ

佐本川渓流沿いにある。東は添野川そいのがわ(現東牟婁郡古座川町)東南平野ひらの村、南はなか村、西は中野川なかのかわ村。慶長検地高目録では佐本村に含まれる。独立した一村となったのは慶安(一六四八―五二)以後といわれる(続風土記)

慶長六年(一六〇一)の佐本村内西野川村御検地帳(元文五年写、すさみ町教育委員会保管)によると高六二・一九三石、田畠四町八反八畝二一歩、田地高六割八歩。同検地帳の追記によると元禄一〇年(一六九七)の新田高一斗六升六合、新田地三畝一五歩で、田地高を増石させるためと思われるが灌漑工事により井堰八ヵ所が設けられ(天保四年「大指出帳」同会保管)、畠地を田地にしたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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