日本の城がわかる事典 「西馬音内城」の解説 にしもないじょう【西馬音内城】 秋田県雄勝郡羽後町に中世から近世にかけてあった山城(やまじろ)。稲庭城(湯沢市)を居城としていた小野寺氏の支城。雄物川の支流の西馬音内川の切り立った断崖の上にあった。鎌倉時代の初めに下総国大泉荘(千葉県)から出羽国雄勝郡に入部し、稲庭城を拠点としていた小野寺経道(つねみち)は1277年(建治3)、西の由利郡方面の押さえとして次男の道直に西馬音内城を築かせ、以後道直の子孫が代々城主を務めた。1593年(文禄2)、当時の城主の小野寺茂道は、横手城の小野寺氏総領の小野寺義道から疑いをかけられ軍勢を差し向けられるという事態が起こった。1595年(文禄4)には、この内紛に乗じて山形城の最上義光の家臣の楯岡城主、楯岡満茂が雄勝郡に侵攻。茂道は宗家との確執から戦わず、その軍門に降った。その後、茂道は小野寺氏に帰順、西馬音内城も再び小野寺方の城となったが、小野寺氏は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで西軍の上杉景勝方に与したため、再び最上氏と対立。西軍の敗北後、小野寺氏は孤立し、茂道は西馬音内城に火をかけて庄内に逃れた。小野寺氏は石見国津和野に配流となったが、茂道の子孫は久保田藩や新庄藩に仕えたといわれる。城跡は現在、そのほとんどが山林となっているが、郭、空堀、土塁、隅櫓(すみやぐら)台などの跡が残っている。城への大手口は元西小学校脇にあり、「小野寺家大手門跡」の石碑が建っている。JR奥羽本線湯沢駅からバスで元西小学校前下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報