日本大百科全書(ニッポニカ) 「見返資金」の意味・わかりやすい解説
見返資金
みかえりしきん
第二次世界大戦後、占領下の1949年(昭和24)に連合国最高司令部(GHQ)覚書「ガリオア及びエロア輸入による見返り円」および「ドッジ声明」によって設定された資金。アメリカの援助と同額の円資金を特別に積み立て、通貨安定と経済再建をおもな目的として、国債の償還や公共および民間事業投資などに運用された。この資金の運用については、49年4月12日の閣議了承「米国対日援助見返資金運営要領」に基づいて法制化された。これにより、見返資金は大蔵大臣の管理する特別会計(米国対日援助見返資金特別会計)によって経理され、その運用計画は総合資金計画の一環として経済安定本部(後の経済企画庁、2001年より内閣府)が策定し、大蔵省(現財務省)は運用計画に基づいた資金の管理運用にあたった。また、民間企業に対する貸付の審査、実行、管理の実務の多くは、日本銀行が取り扱った。
この資金の運用については、閣議決定後に具体的な案件ごとにGHQへの申請が必要とされ、GHQが諾否を決定した。GHQによる審査の内容は、当初は使途、金額、事業計画の具体的な内容、貸付条件、企業者名にまで及んだが、その後しだいに大綱についての申請のみで足りるようになった。この承認は占領の終了まで継続した。
見返資金は、通貨・財政安定の趣旨から、債務償還を主とし、財政投融資を従として運用されたが、のちに比重は財政投融資に移った。また、民間への投融資は、当初の直接投資のほかに、金融機関に対する株式出資や証券引受けの形での間接投資も行われた。このような見返資金の運用が、現在の財政投融資制度の原型を形づくったといわれる。
講和条約成立による対日援助の中止と、それに伴う見返資金財源の枯渇の予想のもとで、資金運用部資金(現財政投融資資金)に投資主体がしだいに移行されるとともに、日本開発銀行(=開銀、現日本政策投資銀行)などの政府関連金融機関の育成が図られ、1952年には開銀が復興金融金庫の債権債務を引き継ぎ産業設備資金の一元的供給機関となったことにより、見返資金の民間企業貸付は新規貸付・回収とも同行に継承されることになった。このような形で見返資金の整理は進み、53年には米国対日援助見返資金特別会計は廃止され、産業投資特別会計に全資産が引き継がれた。
[林 正寿]
『大蔵省編『見返資金の記録』(1952・大蔵財務協会)』