日本歴史地名大系 「角倉町」の解説 角倉町すみのくらちよう 京都市:右京区天龍寺門前村角倉町[現在地名]右京区嵯峨天龍寺角倉町大堰(おおい)川(桂川)舟運の水夫たちの居住した区画。慶長九年(一六〇四)、美作の和気(わけ)川(吉井川)の(たかせ)船を視察した角倉了以は「以為凡百川皆可以通舟」(吉田了以碑銘)と感じ、嵯峨(さが)に帰って慶長一一年三月、大堰川の浚削工事に着手。同年八月に完成した。完成後通船の術を教えるため、備前国和気郡伊部(いんべ)村(現岡山県備前市)の法蔵(ほうぞう)寺檀徒で、行舟術にすぐれた舟夫一八名を通船期間の八月から翌年四月の間嵯峨に招いた。 角倉町すみくらちよう 京都市:中京区銅駝学区角倉町中京区新椹木町通二条上ル新椹木町(しんさわらぎちよう)通を挟む両側町。近世、宝永五年(一七〇八)の大火で要法寺が焼失し移転するまで、同寺の境内であった(坊目誌)。町名は、正徳五年(一七一五)刊「都すゞめ案内者」の絵図に「角のくら丁」とあるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では、新椹木町夷川下ルところを「下革堂町」、同二条上ルを「角倉町」とし、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成では全体を「下革堂丁」としている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報