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誠仁親王 さねひとしんのう

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

誠仁親王 さねひとしんのう

1552-1586 戦国-織豊時代,正親町(おおぎまち)天皇の第1皇子。母は藤原房子。
天文(てんぶん)21年4月23日生まれ。永禄(えいろく)11年親王となる。和歌,連歌,書などをよくした。天正(てんしょう)14年7月24日死去。35歳。父の譲位に先だって没したので,子の後陽成天皇によって太上天皇の尊号を追贈された。諡号(しごう)は陽光院,陽光太上天皇。歌集に「陽光院五十首」。⇒陽光院

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朝日日本歴史人物事典の解説

誠仁親王

没年:天正14.7.24(1586.9.7)
生年:天文21.4.23(1552.5.16)
室町後期・安土桃山時代正親町天皇の第1皇子,母は内大臣万里小路秀房の娘房子。没後は陽光院と号され,また太上天皇を追贈され陽光太上天皇とも称される。永禄11(1568)年親王宣下。天正12(1584)年三品に叙せられる。正親町天皇の第1皇子という経歴から,幼少より皇嗣と定められ,同14年父の譲位をうけ践祚する予定であったが,それを果たすことなく病のため死去。このため親王の皇子周仁親王が皇位についた。後陽成天皇である。この間の同5年には,織田信長が親王のために二条御所を新造し,そこに移ったが,同10年に起きた本能寺の変では,御所にまで戦乱がおよび,親王は禁裏へと難を逃れている。また同14年に行われた豊臣秀吉による禁裏での茶の湯にも父と共に出席するなど織田,豊臣両政権下に包摂されていた。幼少より和歌,連歌,箏などをよくし,しばしば歌会や楽会などを催した。また立花や楊引などのたしなみもあるなど文化人としての側面が強かった。歌集として『誠仁親王家五十首』が残されており,書にも優れていたことが知られる。皇子は後陽成天皇をはじめ八条宮智仁親王など14人を数える。<参考文献>井上宗雄『中世歌壇史の研究―室町後期』

(小森正明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

さねひとしんのう【誠仁親王】

1552‐86(天文21‐天正14)
正親町天皇の第1皇子。幼少より皇儲と定められ,1586年には受禅が内定したが,事の行われるのに先立ち病により没した。のち太上天皇を追贈され,院号にちなんで陽光太上天皇,陽光院という。なお織田信長の猶子となり,また本能寺の変には居所二条殿が襲撃されたが,危うく難を免れた。和歌をはじめ連歌,書,立花などをよくし,歌集には《陽光院五十首》がある。【武部 敏夫】

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