谷川庄(読み)たながわのしよう

日本歴史地名大系 「谷川庄」の解説

谷川庄
たながわのしよう

多奈川たながわ一帯にあった奈良興福寺領庄園。建久九年(一一九八)鳥羽上皇の初めての熊野詣にあたり、和泉国国司平宗信は当庄をはじめ国内の興福寺領庄園などに御所造営などの諸課役をかけてきた。このような課役は免除されているとして拒んだところ、国使は当庄の仕丁簀巻にするなど乱妨に及んだため、庄民はいろいろ物を差出し命だけは助かった。同様の狼藉春木はるき庄・池田いけだ(現和泉市)においても行われたため、興福寺は朝廷に宗信を流罪にし、目代以下を禁獄に処するように訴えたが、下手人のみが禁獄されただけであった。そこで興福寺大衆は九月二七日に蜂起し神木動座の準備を始めた。朝廷は一〇月一四日に宗信を解任し、目代を禁獄に処したが、大衆は納得せず、なお、宗信を流罪とすることを要求、この間、朝廷は源頼朝に援助を求めた。頼朝は一〇月一七日の書状で興福寺に、後鳥羽院の初めての熊野臨幸であり、新天皇の一代一度の大嘗祭という重大な国家行事を間近に控えた時期に群参するのは朝敵にあたるとし、衆徒がもし上洛するなら頼朝自身朝廷を守るために馳せ参じ、合戦に及ぼうともこれを辞さないと述べている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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