豊原村
とよはらむら
丸岡城下の東方、田屋村から東へ豊原寺への六本木参道を山中へ入った山間部にあり、東方の大峠道と榎峠道の両道は竹田谷に通ずる。村の全域は中世末期まで豊原寺の寺域であったが、天正三年(一五七五)織田信長によって焼払われ、翌年この地にあった豊原城も丸岡に移築され、寺社や住民も城下に移った。その跡地に田畑が開かれて成立した山村である。その後、再興された豊原寺に対して、慶長八年(一六〇三)結城秀康は当村のうち五〇石を、さらに秀康の側室清涼院が改出し分三二石五斗を寄進し、他は八斗九升(百姓居屋敷分か)を残すのみとなった。
豊原村
とよはらむら
[現在地名]松阪市豊原町
櫛田川の左岸にあり、村域中央を伊勢参宮街道が通る。西の上川村に接する村域西部は伊賀町村で、「五鈴遺響」に「官道ニ民居ス旅貨茶店アリ(中略)売
店アリ詣人多憩食ス」と記される。山下村と接する南部地域は陰陽村であった。伊賀町・陰陽の地名は現在も残る。
貞治七年(一三六八)の「宮田前大宮司家領記」に「田地肆杖豊原所在字樋下」と記される。貞治年中仁木義長に押領され伊勢守護領となり、永享年中(一四二九―四一)に北畠氏支配下となる。
豊原村
ぶいわらむら
[現在地名]八代市
豊原上町・
豊原中町・
平山新町・
渡町
球磨川が八代平野にかかる辺りの左岸から南方に分布し、南は下豊原・奈良木の両村に接する。薩摩街道の十二里木があった。正平一三年(一三五八)名和顕興の家臣松岡長明が居城したという平山城跡がある。同城は高田城とも称され、文亀元年(一五〇一)相良長毎は八代を攻撃したとき、高田城を拠城とした(天文五年一一月二二日「沙弥洞然長状写」相良家文書)。「八代日記」天文八年(一五三九)三月九日条に相良長唯が当地の平山に出向いた記事がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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