日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊田副武」の意味・わかりやすい解説 豊田副武とよたそえむ(1885―1957) 海軍軍人(大将)。大分県生まれ。海軍兵学校、海軍大学校卒業。イギリス駐在後、軍務局員などを経て、1933年(昭和8)連合艦隊参謀長となる。1935年海軍省軍務局長。1941年大将、呉(くれ)鎮守府司令長官。1944年連合艦隊司令長官となり、レイテ沖海戦を指揮した。1945年最後の軍令部総長となる。ポツダム宣言受諾に反対し、御前会議で徹底抗戦を主張した。敗戦後、戦犯として収容されたが、1948年(昭和23)釈放され、1949年無罪の判決を受けた。[小田部雄次][参照項目] | ポツダム宣言 | レイテ沖海戦 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「豊田副武」の解説 豊田 副武トヨダ ソエム 昭和期の海軍軍人 海軍大将。 生年明治18(1885)年5月22日 没年昭和32(1957)年9月22日 出生地大分県 学歴〔年〕海兵(33期)〔昭和38年〕卒,海大〔大正6年〕卒 経歴大正15年由良艦長、昭和5年日向艦長、8年連合艦隊参謀長、10年軍務局長、14年艦政本部長などを経て、16年大将に進む。19年殉職した古賀峯一大将の後をうけて、第3代連合艦隊司令長官に就任、同年10月レイテ沖海戦を指揮するが失敗。20年5月最後の軍令部長となり、徹底抗戦を図るが実現しなかった。戦後、戦犯として逮捕されたが、24年無罪となった。著書に「最後の帝国海軍」がある。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊田副武」の意味・わかりやすい解説 豊田副武とよだそえむ [生]1885.5.22. 大分[没]1957.9.22. 東京海軍軍人。 1905年海軍兵学校,17年海軍大学校卒業。 33~35年連合艦隊参謀長をつとめ,海軍省教育局長,軍務局長,艦隊長官,艦船本部長など歴任後,41年大将。その後,呉,横須賀鎮守府長官などを経て,古賀峯一大将の戦死後,44年5月に連合艦隊司令長官となった。翌年5月に海軍の作戦部隊全部を指揮する海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官となったが,まもなく軍令部総長に任じられ,終戦にいたった。戦犯として収容されたが,48年に釈放。主著『最後の帝国海軍』 (1950) 。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊田副武」の解説 豊田副武 とよだ-そえむ 1885-1957 明治-昭和時代前期の軍人。明治18年5月22日生まれ。連合艦隊参謀長,軍務局長などを歴任。昭和16年海軍大将。19年連合艦隊司令長官となり,レイテ島海戦などを指揮。20年軍令部総長。ポツダム宣言の即時受諾に反対し,徹底抗戦を主張した。昭和32年9月22日死去。72歳。大分県出身。海軍大学校卒。著作に「最後の帝国海軍」。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「豊田副武」の解説 豊田 副武 (とよだ そえむ) 生年月日:1885年5月22日昭和時代の海軍軍人。海軍総司令長官;軍令部総長1957年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by