賤ヶ岳の戦(読み)しずがたけのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「賤ヶ岳の戦」の意味・わかりやすい解説

賤ヶ岳の戦 (しずがたけのたたかい)

1583年(天正11)4月近江国賤ヶ岳付近でおこなわれた羽柴豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後,秀吉と勝家の勢力争いに信長の遺子信雄(のぶかつ)と信孝の争いが加わったものである。1582年12月秀吉は越前北ノ庄の勝家が雪で兵を出せないのに乗じて,勝家の属城近江長浜城を攻略,勝家と結んだ岐阜城の信孝を下した。翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。秀吉は伊勢から軍を返して木之本を本営とし,両軍相対し動かなかった。4月になると信孝が反して背後をおびやかしたので秀吉は大垣に帰陣,その虚に乗じて盛政が攻撃した。敗報を聞いて秀吉は急ぎ軍を返し,21日に盛政を賤ヶ岳に破った。秀吉近臣の奮戦は世に賤ヶ岳の七本槍(福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治片桐且元平野長泰,加須屋真雄)として著名である。勝家も敗走して北ノ庄にもどり,秀吉の軍に囲まれて城に火を放ち北ノ庄で夫人(小谷方)とともに自刃した。ついで秀吉は信孝を自殺させ一益を降伏させた。この戦いで秀吉は,彼が全国覇者となる地歩を固めた。
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百科事典マイペディア 「賤ヶ岳の戦」の意味・わかりやすい解説

賤ヶ岳の戦【しずがたけのたたかい】

1583年近江(おうみ)国賤ヶ岳で,豊臣秀吉柴田勝家が戦った決戦本能寺の変後台頭した秀吉と,織田家の宿老勝家の主導権争いが激化し,4月21日決戦が行われた。戦いは秀吉の大勝に終わり,勝家は居城越前北庄(きたのしょう)に追いつめられ自刃し,秀吉は信長の後継者の地位を確立。なおこの戦いでの秀吉軍の福島正則加藤清正,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,片桐且元,加須屋真雄の奮戦ぶりを賤ヶ岳の七本槍という。
→関連項目賤ヶ岳前田利家

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世界大百科事典(旧版)内の賤ヶ岳の戦の言及

【佐久間盛政】より

…1580年(天正8)伯父佐久間信盛の失脚に連座して蟄居(ちつきよ)したが,許されて柴田勝家に属する。83年の賤ヶ岳の戦では勝家方として活躍したが,敗戦により捕らえられて斬首された。【柴辻 俊六】。…

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