柴田勝家(読み)シバタカツイエ

デジタル大辞泉 「柴田勝家」の意味・読み・例文・類語

しばた‐かついえ〔‐かついへ〕【柴田勝家】

[1522~1583]安土桃山時代武将尾張の人。妻の小谷の方織田信長の妹。信長第一の将として戦功があり、北陸経営に当たった。本能寺の変後、豊臣秀吉賤ヶ岳しずがたけで敗れ、越前北ノ庄で自刃

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精選版 日本国語大辞典 「柴田勝家」の意味・読み・例文・類語

しばた‐かついえ【柴田勝家】

  1. 安土桃山時代の武将。尾張国の人。初名権六、のち修理亮(すりのすけ)と称す。妻は織田信長の妹。はじめ信長の弟信行に仕え、信長を除こうとして失敗、許されて信長に仕える。信長の没後、豊臣秀吉対立し、佐久間盛政とともに越前に挙兵したが、賤ケ岳戦いに敗れて自刃。天正一一年(一五八三)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柴田勝家」の意味・わかりやすい解説

柴田勝家
しばたかついえ
(1522―1583)

戦国時代から安土(あづち)桃山時代の武将。権六(ごんろく)、修理亮(しゅりのすけ)。織田氏の宿老(しゅくろう)。初め信長の弟信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した。1570年(元亀1)6月、近江(おうみ)(滋賀県)長光寺(ちょうこうじ)城を守っているとき、六角承禎(ろっかくしょうてい)のため飲料水攻めになるが、水瓶(みずがめ)を破り出撃して勝ち、瓶割り柴田の勇名を得たという。75年(天正3)9月、信長は越前(えちぜん)を平定すると、勝家にこれを与え、北庄(きたのしょう)(福井市)に置き、北陸の総管とした。勝家は80年に加賀を平定し、越中(えっちゅう)に進出するが、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家(としいえ)らを組下とし、82年には上杉景勝(かげかつ)と対戦。本能寺の変では景勝の追撃を警戒し、上洛(じょうらく)できなかった。信長の後継者をめぐり、信長の三子神戸信孝(かんべのぶたか)をたてようとし、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が推す三法師(さんほうし)(信長の嫡孫秀信(ひでのぶ))に対抗した。また秀吉、惟住長秀(これずみながひで)、池田信輝(いけだのぶてる)の3人と交代して庶政をみることになった。これらの動きに対し、同じ不満をもった信孝と結び、83年に滝川一益(たきがわかずます)らも味方にして挙兵した。秀吉は信孝を岐阜城に攻めて降伏させ、一益を伊勢(いせ)長島城に攻めた。やがて勝家が出撃したため、再征中の大垣城から引き返し、近江賤ヶ岳(しずがたけ)で決戦した。ここで敗戦した勝家は急追され、4月24日妻お市の方(小谷(おだに)の方)とともに北庄城で自殺。享年57、58、62など異説がある。浅井氏滅亡ののち勝家と秀吉との間に小谷の方をめぐって争奪がおこり、これが両人不和の原因になったという俗説もある。

[奥野高広]

『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』『岩沢愿彦著『前田利家』(1966・吉川弘文館)』『高柳光寿著『賤ヶ岳之戦』(1978・春秋社)』

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朝日日本歴史人物事典 「柴田勝家」の解説

柴田勝家

没年:天正11.4.24(1583.6.14)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。通称権六。修理亮。尾張愛知郡の出で初め織田信長の弟信行に仕えたが,のち信長の家臣として屈指の宿老となる。猛将の誉れ高く,元亀1(1570)年籠城していた近江長光寺城(近江八幡市)を六角承禎に攻められたとき,飲料水の瓶を割って城には戻らぬ覚悟で出撃し,敵を破ったことから「瓶破柴田」の異名をとったと伝えられる。天正3(1575)年9月,信長が越前(福井県)一向一揆を倒すと,同国の支配を委ねられたが,府中(武生市)に佐々成政,不破光治,前田利家らが監視役として置かれ(府中三人衆),敦賀郡は武藤舜秀に,大野郡の大部分は金森長近,原政茂にそれぞれ与えられたため,越前一国にその支配がおよんだわけではない。 入国すると勝家は北庄(福井市)に9層の天主を持つ城を築き,先に滅びた朝倉氏の城下町一乗谷(同市)から商人,職人を呼び寄せ,寺院を移して新しい町造りを行った。丸岡(丸岡町)に養子勝豊を,袋田(勝山市)には子息勝安を入れて支城とした。また天正4年には7カ条からなる 国中掟 を発布し,百姓が武士の家来になることや,税逃れの目的で他所に移ることを禁じ,家臣には勝家に無断で百姓を人夫に召し使ってはならないことなどを命じた。同年刀狩を実施し,集めた武器を農具や九頭竜川の舟橋の鎖に改鋳したとの伝承も残り,民政にも手腕を発揮したことが窺われる。翌年,信長政権下,越前で初めての検地も行っている。同8年,加賀(石川県)一向一揆を平定して越中(富山県)に進み,越後(新潟県)上杉氏と対峙。同10年の本能寺の変後は,信長の後継者の地位を巡って羽柴秀吉との対立が深まり,翌年4月近江賤ケ岳(滋賀県木之本町)で対戦したが敗れて北庄に退き,秀吉軍による包囲のなか,同24日北庄城にて妻お市(小谷の方。信長の妹,もと浅井長政の妻)と共に自殺した。辞世は「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山ほととぎす」。北庄城本丸跡には柴田神社がある。<参考文献>太田牛一『信長公記』

(河村昭一)

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改訂新版 世界大百科事典 「柴田勝家」の意味・わかりやすい解説

柴田勝家 (しばたかついえ)
生没年:?-1583(天正11)

安土桃山時代の武将。織田信長の部将,越前北ノ庄城将。通称権六,修理亮。初め織田信行の宿老として信長に反抗したが,のち信長に仕え,美濃・近江・伊勢の征服戦に参加,奈良・京都の軍政にも当たり,1575年(天正3)越前一国を与えられて与力を付属され,北陸の経略に従った。このとき信長が下付した越前国掟は信長の分国統治方針を明示するものであり,一国支配の勝家と府中三人衆とによる相互監察の態勢は織田氏の大名支配の構造を示すものであった。勝家は80年加賀の一向一揆を平定し,ついで上杉氏分国への侵略を開始したが,本能寺の変が起こったため北ノ庄に撤収し,政権の継承をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と対立した。しかし北ノ庄が雪深い北陸に位置したため有利に政局を展開することができず,83年賤ヶ岳の戦に敗れ,4月24日夫人のお市方(小谷方,織田氏)とともに自殺した。武将であるとともにすぐれた民政家であったことがその施政からうかがわれ,秀吉と政権を争うのにふさわしい人物であったことが知られる。
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百科事典マイペディア 「柴田勝家」の意味・わかりやすい解説

柴田勝家【しばたかついえ】

安土桃山時代の武将。初名権六(ごんろく),のち修理亮(しゅりのすけ)と称す。1556年織田信長を倒して弟信行を擁立せんとして失敗。信長に許され,以後織田氏の宿老として大功をあげ,信長の妹お市の方をめとり,1575年以後北陸地方の経略に当たった。本能寺の変後,豊臣秀吉と対立,賤ヶ岳の戦で敗れ,越前(えちぜん)国北庄(きたのしょう)で自殺。
→関連項目尾山北庄清洲会議豊臣秀吉福井[県]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柴田勝家」の意味・わかりやすい解説

柴田勝家
しばたかついえ

[生]大永2(1522).尾張
[没]天正11(1583).4.24. 越前,北庄
安土桃山時代の武将。権六,のち修理亮と称した。初め織田信長の弟信行に仕え,織田家の老臣林信勝とともに信行の擁立をはかったが失敗し,信長の家臣となった。たびたび戦功をあげ,信長麾下第1の猛将といわれ,重臣として勢威を保った。天正3 (1575) 年信長から北陸経営をまかされ,越前北庄 (きたのしょう) に拠って加賀,能登を平定。同 10年越中に攻め入り越後の上杉景勝と対陣中,本能寺の変が起り,豊臣秀吉に明智光秀討滅の功を譲った。織田氏の後嗣問題で秀吉と対立,同 11年4月これを除こうとして近江賤ヶ岳で戦ったが,逆に敗れ,居城北庄で妻小谷の方とともに自殺した。 (→賤ヶ岳の戦い )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「柴田勝家」の解説

柴田勝家
しばたかついえ

?~1583.4.24

織豊期の武将。織田信長の老臣で,近江・北陸侵攻に戦功をあげ,1575年(天正3)北庄(きたのしょう)(現,福井市)城主となる。越前国支配を許され,府中三人衆の前田利家・佐々成政・不破光治が目付として入封し,金森長近も指揮下に加わった。領内では検地や農民から武器を没収するなど,一向一揆に対する諸政策を断行し,80年には加賀一向一揆を事実上平定。さらに信長の北陸侵攻の中核として越後の上杉景勝に対した。82年本能寺の変後,信長の後継者争いで,豊臣秀吉との対立を深めた。翌年賤ケ岳(しずがたけ)の戦で秀吉に敗れ,北庄城で夫人小谷(おだに)の方(信長の妹)とともに自刃。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柴田勝家」の解説

柴田勝家 しばた-かついえ

1522-1583 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)2年生まれ。はじめ織田信行,ついで信長につかえて戦功をたて,越前(えちぜん)(福井県)北庄(きたのしょう)城主となる。本能寺の変後,信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴(豊臣)秀吉と対立,賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ,妻お市の方(信長の妹)とともに天正(てんしょう)11年4月24日自刃(じじん)。62歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は権六,のち修理亮。
【格言など】先陣の大将たる者,威権なき時は下知行わざるものなり(「信長公記」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「柴田勝家」の解説

柴田勝家
しばたかついえ

?〜1583
安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の人。斯波氏の一族。織田信長に仕え,猛将の評が高く,朝倉氏滅亡後,北陸の経営にあたった。本能寺の変(1582)後,豊臣秀吉と勢力を争い,滝川一益・織田信孝らと結んだ。'83年賤ケ岳の戦いに敗れ,越前北庄(福井市)の居城で自刃。

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世界大百科事典(旧版)内の柴田勝家の言及

【越前国】より

… 1573年朝倉氏滅亡後まもなく一向一揆が蜂起するが,翌々年信長は出兵して越前を再平定した。柴田勝家に越前八郡を,その目付として府中三人衆(前田利家,佐々成政,不破光治)を府中に置いて付近の今立・南条2郡を支配させた。また大野郡は金森長近,原政茂,敦賀郡は武藤舜秀が統治した。…

【北ノ庄】より

…戦国時代,朝倉氏は北陸街道を扼(やく)するこの地に一族を配置し,領国経営を進めた。1573年(天正1)朝倉氏が滅亡すると織田信長は北ノ庄三人衆として木下祐久,明智光秀,津田元嘉を配し,75年には柴田勝家を配置して北陸経営の拠点とした。勝家は九重の天守をもつ北ノ庄城を築くが,83年豊臣秀吉に滅ぼされる。…

【賤ヶ岳の戦】より

…1583年(天正11)4月近江国賤ヶ岳付近でおこなわれた羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後,秀吉と勝家の勢力争いに信長の遺子信雄(のぶかつ)と信孝の争いが加わったものである。…

※「柴田勝家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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