戦国時代から安土(あづち)桃山時代の武将。権六(ごんろく)、修理亮(しゅりのすけ)。織田氏の宿老(しゅくろう)。初め信長の弟信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した。1570年(元亀1)6月、近江(おうみ)(滋賀県)長光寺(ちょうこうじ)城を守っているとき、六角承禎(ろっかくしょうてい)のため飲料水攻めになるが、水瓶(みずがめ)を破り出撃して勝ち、瓶割り柴田の勇名を得たという。75年(天正3)9月、信長は越前(えちぜん)を平定すると、勝家にこれを与え、北庄(きたのしょう)(福井市)に置き、北陸の総管とした。勝家は80年に加賀を平定し、越中(えっちゅう)に進出するが、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家(としいえ)らを組下とし、82年には上杉景勝(かげかつ)と対戦。本能寺の変では景勝の追撃を警戒し、上洛(じょうらく)できなかった。信長の後継者をめぐり、信長の三子神戸信孝(かんべのぶたか)をたてようとし、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が推す三法師(さんほうし)(信長の嫡孫秀信(ひでのぶ))に対抗した。また秀吉、惟住長秀(これずみながひで)、池田信輝(いけだのぶてる)の3人と交代して庶政をみることになった。これらの動きに対し、同じ不満をもった信孝と結び、83年に滝川一益(たきがわかずます)らも味方にして挙兵した。秀吉は信孝を岐阜城に攻めて降伏させ、一益を伊勢(いせ)長島城に攻めた。やがて勝家が出撃したため、再征中の大垣城から引き返し、近江賤ヶ岳(しずがたけ)で決戦した。ここで敗戦した勝家は急追され、4月24日妻お市の方(小谷(おだに)の方)とともに北庄城で自殺。享年57、58、62など異説がある。浅井氏滅亡ののち勝家と秀吉との間に小谷の方をめぐって争奪がおこり、これが両人不和の原因になったという俗説もある。
[奥野高広]
『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』▽『岩沢愿彦著『前田利家』(1966・吉川弘文館)』▽『高柳光寿著『賤ヶ岳之戦』(1978・春秋社)』
(河村昭一)
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安土桃山時代の武将。織田信長の部将,越前北ノ庄城将。通称権六,修理亮。初め織田信行の宿老として信長に反抗したが,のち信長に仕え,美濃・近江・伊勢の征服戦に参加,奈良・京都の軍政にも当たり,1575年(天正3)越前一国を与えられて与力を付属され,北陸の経略に従った。このとき信長が下付した越前国掟は信長の分国統治方針を明示するものであり,一国支配の勝家と府中三人衆とによる相互監察の態勢は織田氏の大名支配の構造を示すものであった。勝家は80年加賀の一向一揆を平定し,ついで上杉氏分国への侵略を開始したが,本能寺の変が起こったため北ノ庄に撤収し,政権の継承をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と対立した。しかし北ノ庄が雪深い北陸に位置したため有利に政局を展開することができず,83年賤ヶ岳の戦に敗れ,4月24日夫人のお市方(小谷方,織田氏)とともに自殺した。武将であるとともにすぐれた民政家であったことがその施政からうかがわれ,秀吉と政権を争うのにふさわしい人物であったことが知られる。
執筆者:岩沢 愿彦
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?~1583.4.24
織豊期の武将。織田信長の老臣で,近江・北陸侵攻に戦功をあげ,1575年(天正3)北庄(きたのしょう)(現,福井市)城主となる。越前国支配を許され,府中三人衆の前田利家・佐々成政・不破光治が目付として入封し,金森長近も指揮下に加わった。領内では検地や農民から武器を没収するなど,一向一揆に対する諸政策を断行し,80年には加賀一向一揆を事実上平定。さらに信長の北陸侵攻の中核として越後の上杉景勝に対した。82年本能寺の変後,信長の後継者争いで,豊臣秀吉との対立を深めた。翌年賤ケ岳(しずがたけ)の戦で秀吉に敗れ,北庄城で夫人小谷(おだに)の方(信長の妹)とともに自刃。
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… 1573年朝倉氏滅亡後まもなく一向一揆が蜂起するが,翌々年信長は出兵して越前を再平定した。柴田勝家に越前八郡を,その目付として府中三人衆(前田利家,佐々成政,不破光治)を府中に置いて付近の今立・南条2郡を支配させた。また大野郡は金森長近,原政茂,敦賀郡は武藤舜秀が統治した。…
…戦国時代,朝倉氏は北陸街道を扼(やく)するこの地に一族を配置し,領国経営を進めた。1573年(天正1)朝倉氏が滅亡すると織田信長は北ノ庄三人衆として木下祐久,明智光秀,津田元嘉を配し,75年には柴田勝家を配置して北陸経営の拠点とした。勝家は九重の天守をもつ北ノ庄城を築くが,83年豊臣秀吉に滅ぼされる。…
…1583年(天正11)4月近江国賤ヶ岳付近でおこなわれた羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後,秀吉と勝家の勢力争いに信長の遺子信雄(のぶかつ)と信孝の争いが加わったものである。…
※「柴田勝家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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