赤狩り
あかがり
red hunting
red-baiting
共産主義者や進歩的自由主義者を社会的に追放すること。このことばの語源は、中世末期のヨーロッパにおいて行われた魔女狩りwitch-huntにある。アメリカ合衆国における赤狩りの歴史は有名で、19世紀以来、社会主義運動に対し「非アメリカ的」であるという理由でさまざまな迫害が加えられた。とくに第一次世界大戦中から戦後にかけて、ロシア革命への危機感などから、パーマー司法長官のもとで、共産主義者はもとより無政府主義者や労働運動指導者に対する大々的な取締りが実行された。その後、第二次世界大戦中に、1940年の外国人登録法などによって共産主義活動への規制が強化され、戦後、下院に非米活動委員会が常設されるに及んで赤狩りは活発化した。そしてマッカーシズムの出現で一つのピークを迎え、自由の擁護の名のもとに自由の抑圧が進行した。なお日本では、戦前、治安維持法などにより、社会主義運動のみならず自由主義者に対しても激しい弾圧が加えられた。
[佐藤信一]
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世界大百科事典(旧版)内の赤狩りの言及
【アメリカ映画】より
…メジャーが統括していた製作,配給,興行の3部門から興行部門が分離され,各社は大きな経済的基盤を失い,それに伴って独立プロデューサーが台頭する契機を生み出す一方,やがて1950年代から60年代にかけてメジャー各社がコングロマリットに次々と吸収されていくことになる。 さらに,戦後の冷戦の激化とアメリカ社会の反動化を背景として,1947年,共和党議員パーネル・トマスを中心とする下院非米活動委員会が,ハリウッドの〈赤狩り〉に本格的に乗り出し,50年代半ばまで多数の映画人の間に深刻な分裂と動揺をもたらした。この期間にハリウッドから追放され,あるいはみずから去り,その後長い間アメリカでは自由な活動の場を与えられず,海外での活動を余儀なくされた映画人は多い。…
【チャップリン】より
…52年9月,63歳の芸術家チャップリンの〈精神的・哲学的自画像〉といわれた《ライムライト》(1952)の上映のために故国イギリスへ渡った翌日,トルーマン政権の法務長官は,チャップリンの再入国を保証しないと宣言した。スイスに永住の居を定めたチャップリンは,マッカーシーの〈赤狩り〉旋風が吹き荒れるアメリカの〈狂気の時代〉を告発する《ニューヨークの王様》(1957)をロンドンで製作し,さらに10年後,77歳でみずから〈ロマンティック・コメディ〉と定義した最後の作品《伯爵夫人》(1967)を発表したが,〈偉大な天才の凡作〉という評価が多かった。 1948年,フランスの映画批評家協会はノーベル賞委員会に対してチャップリンへの授賞を申し入れ,54年には世界平和評議会が平和国際賞を贈り,71年にはフランス政府がレジヨン・ドヌール勲章を贈った。…
【チャップリンの殺人狂時代】より
…第1次大戦直後に現れたフランスの殺人鬼〈青ひげランドリュ〉の事件をチャップリン主演で喜劇化しようとしたもので,オーソン・ウェルズの原案による。絞首台を前にして,映画の中の殺人狂ムッシュー・ベルドゥーが語る〈人間を1人殺せば絞首刑になるが,無数に殺せば勲章をもらえる〉というアイロニーは,〈青ひげの変質的な殺人がチャップリンの錬金術によって一つの社会的必然に変えられた〉と評され,ヨーロッパ,とくにパリで大好評だったが,アメリカでは封切が〈赤狩り〉の台頭と時を同じくし,チャップリン映画としてははじめての興行的大失敗に終わった。【柏倉 昌美】。…
【ハリウッド・テン】より
…
[1947年の聴聞会]
非米活動委員会(そのなかにはのちの大統領ニクソンも加わっていたことはよく知られている)は,1940年と45年に〈映画産業への共産主義の浸透〉を非公開の聴聞会で調査したことがあるが,47年2月に新委員長になったニュージャージー選出の共和党議員J.パーネル・トーマスは,小委員会を発足させてハリウッドで非公開の聴聞会を開き,〈友好的〉な12人の証人からハリウッドは共産主義の温床であるという証言を引きだし,9月には数十人のハリウッドの映画人に喚問状を送りとどけた。トーマスがハリウッドの〈赤狩り〉にのりだした47年は,第2次世界大戦後アメリカ映画が日本,イタリア,西ドイツなどの新しい市場を独占してハリウッドが繁栄し,戦後アメリカ映画の代表作の一つに数えられているウィリアム・ワイラー監督《我等の生涯の最良の年》(1946)がアカデミー賞の主要部門をさらった年であり,ハリウッドを攻撃の目標に選んだのはセンセーショナルな宣伝効果を意図したものであると指摘されている。これに対し,500人の映画人が加盟した〈憲法第1修正条項委員会〉(第1修正条項とはいわゆる信教の自由,表現の自由を保障するもの)が結成されて基本的人権と良心の自由の擁護を訴え,映画監督,シナリオライターの組合も,相次いで非米活動委員会の〈思想調査〉に反対の声明を発表した。…
【非米活動委員会】より
…なかでも1938年に連邦議会下院に特別委員会として設置された下院非米活動委員会House Committee on Un‐American Activities(略称HUAC,通称ダイズ委員会)は有名である。HUACは当初,国内のナチス支持集団による破壊活動の抑制を目的として設立されたが,やがてその主要目標を共産主義者へと転じ,45年の共和党が多数を占めた議会で常任委員会に昇格して以後は,R.M.ニクソンらの右翼的議員による〈赤狩り〉の牙城となる。47年に行われたハリウッドの映画人に対する審問([ハリウッド・テン])や翌年のニューディール派官僚ヒスAlger Hissのスパイ容疑をめぐる公聴会は,非米活動に対する国民の関心を一挙に高め,連邦議会上院でもマッカーシーらによる同種の調査活動([マッカーシイズム])が活発化する原因となった。…
【ブレヒト】より
…1954初演)はここで執筆されているが,上演の機会もないままに《真鍮買い》などに新しい演劇論をまとめていった。 第2次大戦後は赤狩りの風潮の起こり始めた47年,非米活動委員会に喚問され,その直後スイスに渡り,48年,東ベルリンからの求めに応じて帰国した。翌49年には妻[H.ワイゲル]の主演で《肝っ玉おっ母とその子供たち》を上演して注目をあび,同じ年劇団〈[ベルリーナー・アンサンブル]〉を結成した。…
【マッカーシイズム】より
…D.G.アチソン,G.C.マーシャルらの民主党政府の要人,中国研究者のO.ラティモア,民主党政権下で無任所大使を務めたP.C.ジェサップらの著名な知識人,外交官を次々と指弾することにより,マッカーシーは新聞,テレビの注目を浴び,ロバート・タフトら共和党の一部指導者の後押しもあって,一躍有名議員となった。 52年選挙で彼自身が再選され,共和党アイゼンハワー政権が成立してのちは,マッカーシーは政府機能審査小委員会委員長に就任,CIA,VOAからついには陸軍に至る政府機関にまで,その赤狩りの手を広げ,一時は〈大統領に匹敵する〉とさえ評される権勢を誇った。しかし,54年春テレビ中継された対陸軍議会聴聞会において,彼の従来よりの主張の虚偽性とその中傷による政敵攻撃の手法は衆目にさらされ,以後彼の政治的影響力は急速に衰えた。…
※「赤狩り」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」