足利町(読み)あしかがまち

日本歴史地名大系 「足利町」の解説

足利町
あしかがまち

渡良瀬川北岸に位置し、足利五ヶごか村・足利新田を合せた通称名。近世に入って足利郡・簗田やなだ郡の村民らが使用したようで、寛文年間(一六六一―七三)に足利町役人より領主に提出したといわれる足利町全図(足利考古図録)が残る。室町・戦国期のものと推測される鑁阿寺一山十二房図(鑁阿寺蔵)によると、同寺南方の道路に家屋が並び、道路には「とをり町」の符箋が貼られていたという。古蹟足利城之絵図(鑁阿寺蔵など)では、大通りは現在の鑁阿ばんな寺南方のものと大差なく、西の二重にじゆう坂よりもと町・しも町・新田町と東に開け、本町西部より南に八日ようか町・二日ふつか町、中央より南にうら町が連なり、北方に小谷田宿と称する町(現本城二丁目・三丁目付近)があり、鑁阿寺以東に町並はなかった(近代足利市史)。近世を通じて城下としての町割は行われず、在郷町的性格が強かったと考えられる。宝永二年(一七〇五)戸田忠利が足利に入部して足利藩が成立、下野足利・河内かわち都賀つが三郡で一万一千石を領した。


足利町
あしかがちよう

[現在地名]館林市本町ほんちよう一丁目

館林城下町の中心、札の辻ふだのつじ(大辻)の北に延びる日光脇往還沿道の町。東は連雀れんじやく町・並木なみき町、西はよこ町、南は谷越やごえ町へ続く。「館林記」によれば、元亀元年(一五七〇)館林城に入った長尾顕長は、城下町建設に当たり、家臣であった小林彦五郎を下野足利(現栃木県足利市)より招いて町割をさせた。彦五郎は多数の下役を足利より呼寄せ、札の辻以北の大道に面して居を構えたことから町名が付けられたという。延宝二年(一六七四)の城下町図に町名がみえる。「館林記」では板葺家五九、男一五〇・女一六〇、馬三四。弘化三年(一八四六)の町方引渡帳(館林藩史料)では長さ三町五間四尺、家数九五、ほかに町役人無役屋敷五、定使無役屋敷一がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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