デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近衛忠煕」の解説 近衛忠煕 このえ-ただひろ 1808-1898 江戸後期-明治時代の公卿(くぎょう)。文化5年7月14日生まれ。近衛基前(もとさき)の子。右大臣をへて安政4年(1857)左大臣,5年内覧となる。日米の条約勅許問題で尊攘(そんじょう)派の立場をとり,安政の大獄で失脚。文久2年(1862)復帰し,関白,内覧,氏長者となるが,公武合体論がうけいれられず,3年関白を辞任した。明治31年3月18日死去。91歳。贈正一位。号は翠山。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛忠煕」の意味・わかりやすい解説 近衛忠煕このえただひろ [生]文化5(1808).7.14.[没]1898.3.18.江戸時代末期から明治の公卿。父は基前。母は徳川宗睦の娘静子。安政の大獄に連座して安政6 (1859) 年左大臣を辞し,落飾して翠山と号した。文久2 (62) 年復飾して関白となったが,公武合体の方針をとったため,宮中の討幕派勢力に圧せられて翌年関白を辞した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
367日誕生日大事典 「近衛忠煕」の解説 近衛 忠煕 (このえ ただひろ) 生年月日:1808年7月14日江戸時代;明治時代の公家1898年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by