朝日日本歴史人物事典 「近衛忠煕」の解説
近衛忠煕
生年:文化5.7.14(1808.9.4)
幕末維新期の公家(摂家)。近衛基前の子。妻興子が薩摩藩主島津斉興の養女であったこともあり,政治的にも薩摩藩と緊密な関係を有した。安政4(1857)年左大臣となり,翌年,条約勅許問題を巡って,幕府寄りの関白九条尚忠と対立。右大臣鷹司輔煕,内大臣一条忠香,前内大臣三条実万らと共に,同年8月の「戊午の密勅」降下を推進した。翌月,尚忠に代わって内覧となるが,幕府側の圧力のため約1カ月で辞退。安政の大獄(1858~59)によって辞官・落飾・慎を余儀なくされた。文久2(1862)年赦免され,関白・内覧となり,まもなく国事御用掛も兼任。翌年,尊攘派に忌避され,関白・内覧を辞したが,国事御用掛にはとどまって朝政に関与し続けた。実万の人物評によれば,温厚にして権勢を執る心が少しもなく,純々たる君子であったらしい。<参考文献>勢多章之『近衛忠煕公』(少年読本第24編)
(箱石大)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報