条約勅許問題(読み)じょうやくちょっきょもんだい

改訂新版 世界大百科事典 「条約勅許問題」の意味・わかりやすい解説

条約勅許問題 (じょうやくちょっきょもんだい)

1857年(安政4)から67年(慶応3)に至る幕末政治史上最大の内政外交問題。幕府は1854年の日米和親条約締結に際して朝廷アメリカ国書を奏聞したが,調印については事後報告を行うにとどまった。しかし,日米修好通商条約の調印問題には国内の反対派を押さえるために勅許を得るべく,57年幕吏を上洛させた。朝廷の調印反対,攘夷の意は強く,このため外交責任者の老中堀田正睦(まさよし)は翌年2月みずから上洛し,国際情勢の変化を説き勅許を奏請したが,朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下した。このため堀田や彦根藩は関白九条尚忠と結んで孝明天皇翻意を迫り,外交問題の幕府への委任を認めさせたが,攘夷派公卿の猛烈な反対運動の結果,朝議はくつがえり,再度さきの勅諚が下された。この間,水戸藩や尊攘派志士は攘夷の入説を繰り返し,また開国政策を支持する薩摩,福井藩なども将軍継嗣に一橋慶喜を推す勅許を得ようと画策したため(将軍継嗣問題),京都情勢は両問題が絡んで複雑な様相を呈した。

 幕府は中国のアロー号事件の例をひき,強く調印を迫るアメリカの要求を入れ,58年6月19日大老井伊直弼は勅許を得ないまま調印を断行した。これが幕末政局激動の発端となり,以後尊攘派は幕府攻撃の絶好の口実を得,他方幕府は強硬策をとりつつ(安政の大獄),200年にわたる朝廷への統制策を放棄し,攘夷の意を奉ずることで朝廷との融和を図った。62年(文久2)には江戸,大坂,兵庫,新潟の開市開港の延期を列強に認めさせ,翌年には横浜鎖港の交渉に入った。列強はこうした幕府の鎖国主義を警戒,また連続する攘夷運動に対処するため,64年9月幕府へ条約勅許を要求,翌年の下関事件後にはイギリス,アメリカ,フランス,オランダの四国艦隊が大坂湾に入り,条約勅許と兵庫開港を再び要求した。しかし朝廷は勅許を与えず,66年幕長戦争の終結,孝明天皇の死去により,ようやく情勢が変化し,ついに67年5月23日,兵庫開港の勅許が出され,この問題は決着した。
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百科事典マイペディア 「条約勅許問題」の意味・わかりやすい解説

条約勅許問題【じょうやくちょっきょもんだい】

1854年の神奈川条約の調印で,幕府は朝廷に対して事後報告にとどまったが,日米修好通商条約では締結反対派を抑えるため勅許を得ようとした。1857年から翌年にかけて二転,三転はあったものの朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚(ちょくじょう)を下す。京都情勢はこの頃条約勅許問題(開国か攘夷か)に将軍継嗣問題も絡んで複雑な様相を呈した。1858年6月大老井伊直弼は勅許を得ないまま調印を断行,尊攘派の幕府攻撃は激しさを増したが,井伊は安政の大獄で応えた。その後幕府は朝廷との融和策をとり,1862年には兵庫などの開市開港延期を列強に認めさせた。列強はこうした幕府の鎖国主義を警戒,幕府に対して条約勅許と開市開港を繰り返し求めた。しかし朝廷は勅許を与えず,1866年幕長戦争の終結,孝明天皇の死去などによる情勢変化を受け,1867年5月兵庫開港の勅許が出され,問題は決着した。
→関連項目安政五ヵ国条約岩倉具視孝明天皇尊王攘夷運動

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「条約勅許問題」の意味・わかりやすい解説

条約勅許問題
じょうやくちょっきょもんだい

安政(あんせい)五か国条約の勅許をめぐる朝廷と幕府の政治抗争。幕末、列国の開国要求に対し、幕府は最初、朝廷の承認を得て和親条約を締結する方針をとったが、鎖国攘夷(じょうい)主義の朝廷は、通商条約の締結に反対して勅許を与えず、そのため大老井伊直弼(いいなおすけ)は幕府の専断で通商条約に調印した。この結果、攘夷運動が尊王主義の形をとって反幕府運動に発展し、幕府は列国の圧力と尊王攘夷運動との板挟みになって苦悩することとなった。列国は、頻発する攘夷事件に幕府の統治能力を疑問視するに至り、イギリスをはじめとするフランス、アメリカ、オランダの4国代表は、ついに実力を行使して攘夷派の拠点である長州藩を屈服させる(四国連合艦隊下関(しものせき)砲撃事件)。一方、兵庫開港の履行と条約自体に実効を与えるため、1865年(慶応1)9月、兵庫沖に艦隊を集結させて条約勅許を獲得せよと幕府に迫った。徳川慶喜(よしのぶ)ら幕府当局者は力を尽くして朝廷を説得し、ようやく列国の圧力を認識した朝廷は、10月5日勅許を与えた。こうして朝廷が条約の批准権をもつことが明白となった一方、朝廷が開国に同意したので、攘夷運動も退潮に向かうこととなった。

[田中時彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「条約勅許問題」の意味・わかりやすい解説

条約勅許問題
じょうやくちょっきょもんだい

江戸時代末期,開港当時の条約勅許をめぐる朝廷と幕府との間の紛争。ペリー渡来以来,列強の開国要求は相次いだが,朝廷は常に攘夷思想により開国に反対するとともに,条約の締結には勅許の必要なことを説いた。安政5 (1858) 年幕府は老中首席堀田正睦を朝廷に送って日米修好通商条約の勅許を奏請したがいれられなかった。将軍継嗣問題で堀田が敗れてのち大老に就任した井伊直弼は勅許を待たずに五ヵ国条約 (→安政五ヵ国条約 ) に調印することとなった。このため朝幕間の対立は深まり,幕府は安政の大獄を行い,朝廷は条約破棄と攘夷決行を迫るという反幕的態度を堅持した。しかしイギリス,フランス,アメリカ,オランダ4国公使の強圧的態度に朝廷が屈したため,慶応1 (1865) 年 10月5日,条約は勅許をみるにいたった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「条約勅許問題」の解説

条約勅許問題
じょうやくちょっきょもんだい

幕末期,安政五カ国条約の調印・勅許をめぐる紛議。1858年(安政5)孝明天皇は条約を認めず,大老井伊直弼(なおすけ)は仮条約のまま調印。天皇は無断調印に激怒し,朝幕関係が悪化した。この問題は攘夷か開国か,尊王か佐幕かの争点ともなり,外国人殺傷事件も続発。列強は条約勅許を得なければ攘夷運動根絶は不可能と考え,64年(元治元)四国連合艦隊が下関砲撃を行い,勝利をおさめると,65年(慶応元)兵庫沖に来航して条約勅許,兵庫の先期開港と関税率軽減(改税約書)を要求した。朝議は紛糾したが,徳川慶喜(よしのぶ)らが説得につとめ,10月5日条約勅許の勅書が出された。これによって仮条約は合法化され,天皇が元首であることが明示される結果となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「条約勅許問題」の解説

条約勅許問題
じょうやくちょっきょもんだい

幕末,日米修好通商条約の勅許をめぐる政治的紛議
幕府が反対派を抑えるため条約勅許を朝廷に要請しながら,1858年条約に無断調印したことにより政治的紛議をかもした。その後,'65年,イギリス・アメリカ・フランス・オランダ4国公使が軍艦で兵庫沖に至り,条約勅許を要求したこともあって,幕府はようやく勅許を得た。

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世界大百科事典(旧版)内の条約勅許問題の言及

【安政の大獄】より

…多数の逮捕者と処刑者が出た。
[原因]
 大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。…

【将軍継嗣問題】より

…家定の継嗣問題は,日米修好通商条約の締結がからんだため,一段と激烈で複雑な政争となった。両派内それぞれに条約への賛否両論を抱え,しかもそれぞれに条約勅許問題を継嗣問題を有利に展開させるための取引材料としたからである。この決着は,58年彦根藩主井伊直弼の大老就任によってつけられた。…

※「条約勅許問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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